京都会議の前に

経済学研究科修士課程2年   馬 紅梅

 今年の十二月、気候変動枠組み条約第三回締約国会議(COP3)が京都で行われることとになっている。会議の目標が地球温暖化の予防措置に関する国際合意にあるので、温暖化防止京都会議とも呼ばれている。この会議の焦点は二酸化炭素の排出を削減する拘束的な数値目標の設定に絞られているが、参加国間(先進国vs.先進国、先進国vs.発展途上国、途上国vs.途上国)の意見が食い違い、国際的なコンセンサスを達成するのは、きわめて難しいと予想されている。

 大気、水源、土壌、森林などの環境資源に恵まれていればこそ、、われわれ人間が生きられ、これからも生きていくことができる。環境を守ろうとの呼びかけは、つい最近四十年ほど前のことにすぎない。人類が自然を守ることに躍起になった背景には、人間自身が自然破壊の元凶だということがあろう。60年代、経済発展は人々に世界が無限に繁栄しつづけるとの夢を抱かせたが、この夢はすぐ環境破壊の危機意識によって崩された。大気汚染、水質汚染、土壌の砂漠化、森林の急激な減少などの問題が顕在化したのである。このうち公害と呼ばれるものは地域的に限定されていたが、フロン使用によるオゾン層の破壊や二酸化炭素の増加による地球温暖化、硫黄酸化物・窒素酸化物による酸性雨被害などの環境破壊は地球的な広がりをもって進行している。

 地球規模の気温上昇は、一概に悪いとは言えないという意見もある。気温と消費の関連についての経済学の研究結果では、夏場の気温が平年と比べて一度低いと、日本の実質消費支出は0.3%減ると試算されている。暑くなったら、ビールは飲むし、エアコンや水着の売れ行きもよくなる。この理論によれば、地球温暖化はコストのかからない景気刺激手段となり、むしろ喜ばしいことでさえある。

 環境を守ろう、地球は一つでだといっても、百以上の国々に分断され、それぞれの国の資源である。それぞれ国ごとに環境の現状が違い、環境保全の基準も違う。超国家的な存在がないと、世界規模の環境保護基準を決めることは難しい。その実行はなおさらである。二酸化炭素の放出量の制限を例にとれば、先進工業国では産業構造が高度化して、公害多発産業が衰退し、あるいは環境基準の緩い発展途上国へ移転したので、制限は厳しくても産業に支障は生じない。多くの発展途上国では環境意識がまださほど高くない。意識されたとしても、貧困から脱出するために、何よりも経済発展を最優先課題にしているので、反対の声が押さえられたり、目をつぶって知らんふりをしているのが現状である。環境保全は軽視され、極端な場合には環境汚染物質多排出型の産業構造が形成されてしまう。フィリピンの開発独裁で名高いマルコスは、大統領時代に日本の新聞のインタビューに答えて、「われわれの希望としては、日本で現在操業中の工場、機械設備のうち、将来、公害問題などで閉鎖の運命にあるものを、フィリピンへ移転させることはできないだろうか。フィリピンはそれを受け入れる用意はできている」とさえ述べていた(『読売新聞』1977年1月29日付)。多国籍企業が発展途上国に進出する動機はさまざまであるが、時に本国のきびしい公害・環境法令による規制を免れ、あるいは公害対策費の削減を狙う場合もある。そのような場合には受け入れ国の公害・環境法令の不備か、監督体制が弱体であるのを充分に承知のうえの進出であるから、「受け入れ国の公害防止、環境規制に従います。従っているかぎり、公害が発生したり環境を破壊しても、責任を負いません」という姿勢、態度をとるのが通常である。農薬、薬品などの物質やそれらが使用された製品を発展途上国に輸出したり、または生産施設を現地で設けて、製造販売することによって、農薬による土壌汚染と食品汚染をひきおこし、農薬や有害物質の使用された商品による人の生命と健康に対する被害をもたらす。

 発展か環境か、難しい選択と言わざるをえない。日本でも、七○年代に、「くたばれ、GNP」と言われたが、発展途上国にとっては、発展しないと、国家の安定さえ脅かされる危険がある。どっちにしても、人間にとっては、生存環境は厳しい。

 京都会議の議論の焦点は、二酸化炭素排出をめぐる三つのアプローチのメリットとデメリットにある。(1)すべての国の一律削減(2)関係費用の最小化のための国別削減(3)国の資源保存とほかの要素による国別削減。議長国の日本の官庁内部、産業部門間にさえ意見の食い違いがある。環境庁はすべての国が一律的に排出量を削減すべきだと主張する。通産省は一人当たりの基準を設定し、そこまで削減すべきだという。日本はアメリカ、中国、ロシアに次ぐ世界の四番目の二酸化炭素の排出「大国」であるが、一人当たりの排出量は世界の十二位にすぎない。通産省の計画では、アメリカやカナダなど一人当たりの排出量の多い国は急激な削減を求められる。他方、日本は難なくパスできるのである。

 通産省に圧力をかけている産業界は、日本ではすでに排出削減に最大限の努力をしてきたので、これ以上は削減できないという。環境庁の計算では、日本は年間の石油購買量を五千万リットル削減しないと、1990年の二酸化炭素排出基準が守れない。サウジアラビヤ、クェートなど産油国も、石油需要の減少を懸念し、排出削減に猛烈に反発している。他方で海抜数メートル以下の南太平洋の国々にとっては海面上昇は死活問題なので、2005年までに、90年基準の20%削減を提案している。国内産業にもいろいろな声がある。代替産業のソーラーエネルギー産業、天候不順による賠償額膨張を危惧する保険会社は、削減を支持する。石炭、石油、鉄鋼産業は国際競争力にマイナスだと、反対している。自動車の排気ガスは、一九九五年には、排出された二酸化炭素の17%を占める。日本の自動車メーカーは新型の低排出自動車の開発に力を注いでいるが、コストが高くて、残念なことに消費者には人気がなさそうだ。「環境にやさしいビジネス」というのは、どうもやりにくい。二酸化炭素の排出量を規制、削減するためには、工業化や生活様式そのものの世界的コントロールを必要とする。科学技術の進歩はその可能性を示すが、解決を政治決定に委ねるのではなく、ひとりひとりの「地球人」の環境保全意識が問題である。環境との共存意識をもたず、経済発展ばかりを求めつつけてきた人間(こういう人間はホモ・エコノミクスと呼ばれる)はやがて滅びるだろう。

 日本はジレンマに立たされている。日本経済はいま不景気から回復しつつあるが、本格的に成長すれば二酸化炭素の排出量は増えるに決まっている。島国であるので、海面上昇の危機にもさらされている。EMISSIONS or DECISIONS,This is The Question.

 以前住んでいた上海では、空気が汚れて、川の水も黒っぽく淀んでいた。建設ブームのおかげで町中はほこりだらけで、騒音で頭がぼーとなる。二年前に上海から山口に来て、毎日透明なきれいな空気を吸うことができ、おいしいお水も飲めるようになった。緑を楽しみながら散歩できて、とてもうれしかった。日本で生活して、最も恐いの台風と地震だと思うが、海面上昇も心配になったきた。海は地球の生命の起点であるが、それも地球生命の終点でもあるかもしれない。人魚になっても、悪くないと思うが。

参考文献

Isi Hiroyuki 「LOOK JAPAN」(1997、6)

原洋之介 「開発経済論」

森田桐郎 「世界経済論」

本山美彦 「環境破壊と国際経済」

日本弁護士連合会 「日本の公害輸出と環境破壊」