足元に目を向けよう   〜「環境教育のあり方」に寄せて〜

湯川洋司(人文学部)

(一)


 「環境教育のあり方」について、文章を書くように求められた。何につけても、「あり方」論というのは肩に力が入ってなかなか筆が進まない。そこで、ここでは私のこれまでの経験を紹介しながら、感じていることがらを述べることで責を塞ぎたい。
 さて、私は、環境保全とは「健康な土」をつくるところに帰着するのではないかと思っているのだが、そんな思いから、数年前のこと、教養部で担当していた授業のまとめの段階で、小学2年生が書いた次の詩を受講生に紹介し、感想を書いてもらったことがある。

    あかもり(子守り)
   ばんがたから あかがようなく
   どうしてやってもないてばっかしいる
   ぼくのふくのそでをチュゥチュゥすって
   ないてばっかしおる
   こまって
   たんぼのおかあちゃんとこにいきました
   「ああ、そうか、そうか
    まちどおしかったかえ?」といって
   ちちをのましなった
   あかは大あわてにのみました
   あんまりあわてて
   あかはむせました
   「そんね、あわてんでもええがな、
    ゆっくりのんだらええがな」
   どろのついた手で
   あかのあたまをとかしながらいいました
   「さあさあ、ばんごはんしよかいな」
   おかあちゃんとかえりました
               出典:東井義雄『母のいのち子のいのち』(探求社、1992)

 農家の子供の作品であることはわかるが、いつごろの時代に作られたものだろうか。野良で働く母に代って小学2年生が乳飲み子の子守りをするというのだから、近頃の作ではないのだろう。農村育ちの私は、こうした風景に接しもしてきたから、何ともあたたかい心安らぐ思いでこの詩を読むのだが、学生から寄せられた感想の多くは、どろのついた汚れた手で赤ん坊の頭をなでるとはなんとひどい母親かと非難する内容で、その反応に私は、「えっ」、と驚いてしまった。ここでは土はいのちを育むものではなく、汚らしいものとしか受け止められていない。

(二)


 環境教育ということばは、現在、広く一般に普及したけれども、その趣旨や内容は必ずしもまだ十分に固まっていないように私自身は受け止めている。ただし、日本環境学会の発足やその後の経緯などを参考にしてみるならば、総論としての「環境教育のあり方」はだいたい議論が定着しているように思える。つまり、一種の文明論といってよく、環境保全を唱えなければならなくなったこの時代の文明を問い直す姿勢を基本に、科学技術文明のあり方、自然との距離のはかり方、資源の配分・利用や富の分配などにかかわる社会のあり方、そしてこれらのあり方の具体的表現としての暮らしの質を問い直すあたりに、その目標が定められているとみてよいと思う。しかしこれらを教育としてどう実践していくかという段になると、ことは簡単には進まないように思える。

(三)


 これも教養部時代の経験であるが、ある授業で、現代を「いのちの危機の時代」と捉えて話題を提供したことがあった。その趣旨は、人類が人類であり続けられる限界を示すような、いわば臨界点というものが人間の暮らしにも考えられるのではないか、現代の暮らしはその臨界点にほぼ達しているのではないか、だとすれば今の自分たちの暮らしを足元から見つめ直す必要がないだろうか、と問いかける内容であった。
 授業後、すべての受講生が書いてくれたコメントを読むと、「今の文明を捨てることはできない」とか、「後戻りはいまさらできない」、「文明といったものをまるで考慮していない」などといった趣旨の発言がかなり多く見られた。なぜ後戻りができないと思うのか、学生諸君の真意を聞くことはできなかったものの、この発言は「戻れない」といった客観的表現を装いつつも、むしろ「後戻りなどしたくない」、「自分の慣れ親しんだ暮らしのスタイルは放棄したくない」という主張と理解すべきものと思えた。そしてそれは本音に違いないとも思う。
 平成9年版『環境白書(総説)』は、青柳みどり氏の「環境に対する市民の環境保全行動の規定要因についての分析」(1996)という論文を紹介しながら、日本の一般市民は西欧諸国と同じ程度に環境を優先する考え方をしているけれども、環境に対する価値観や現状認識が直接には環境保全行動に結びついていない現状にあると述べている。つまり、排ガスを気にかけながらも自動車を乗り続けているように、暮らしを取り巻く環境はこのままでは危いと気づいていても、危機を回避しようとする行動は鈍いということである。その要因として『白書』は、環境に対する情報不足のほかに、環境の性質として自分自身では何もしなくても他の人びとの努力におんぶしてすませられる点があることをあげている。
 そうした傾向は前記の学生諸君の間にも見出される。それは、提出された答案やレポートの多くが記す内容と実際の行動とが乖離しているところによく現われている。そこには「環境は守らねばならない」とか、「やがて人間は自然からしっぺ返しをされる」などの表現が並んでいるが、そうしたことばは答えるために用意された常套句に過ぎないように乾いて響く。環境保全の行動は、ここでは明らかに他人事となっている。ただし、すべての学生がそうだったというのではなく、真剣にこの事態を自分にかかわる問題として捉えていた人もある。しかしこの事態にどう対処すればよいのか明確な道筋が誰にも見えていない以上、答えを期待する学生の失望は大きい。つまり、正解のない問いを突き付けられ、考えるだけで、出口が見えてこない勉強には不安が募る。そのことは学ぶための動機づけを曖昧にすることになるし、結局、他人事になってしまう一因になっているのだろうと推察される。ここに環境教育を実践するむずかしさの一つがある。


(四)


 さらにもう一つむずかしい問題がある。それは、環境問題を考え詰めていけば、やがて自分が大切にしている価値観(世界観)と衝突してしまうことが少なくないことである。衝突して考えて、自分の考えを改めていければよいが、実際は衝突すると感じたらそこから下りてしまう人が少なくない。「後戻りできない」という発言はここに由来するのであろうが、そこに、はじめにふれた土を汚いとしか感じられない感性がかかわっているように思える。
 土が花や木を育て、野菜や穀物を実らせるということは、ほとんどの人が知っている。自らの経験を通して学びとった人もあれば、そういうものだと教えられて知った人もあろう。しかし、このことは教えられて知ることができるとしても、土が自分自身とも結びついていると知るのは、ただ教えられるだけでは足りないのではなかろうか。大きな循環する輪の中に自分があり、土もその輪のなかにあることを実感することなしには、土と自分とが結びついた世界観は得られないはずである。自分のすむ世界に多くのさまざまな他者(人間とは限らない)がいて、その他者とのつながりを感じ取り、その関係を理解する。そういう想像力と、その想像力を喚起するさまざまな具体的体験を豊かに持っているならば、環境保全は必然的に自分の問題として考えざるをえなくなるはずではないだろうか。
 環境教育とは、つまるところ、ここに到達することではないか、と私は思う。そのためには、一つ講義で、一人の先生で環境教育を完結させようとするのではなく、自分の足元に目をむけるための各論の授業を複合的に組み合わせて履修するようなあり方が工夫される必要があるように思う。もし、そのような総合的な環境教育が山口大学に実現し、学生と共に自分の足元に目を向けるところから環境の未来(それは人類の未来でもある)を考えるようになるならば、すばらしいことだと思う。