獣医 学における環境教育
獣医学科 岩田祐之
”環境教育”と聞くと,最近話題の”環境ホルモン”,”地球温暖化”,” ダイオキシン”などを思い浮かべますが,獣医学という立場から”環境”というもの を考えてみると,獣医学は動物の健康学を通じて社会に貢献することを目指したもの であり,健康と環境は切り離して考えられないことは周知の如くです.すなわち,獣 医学は,動物の健康(病気)に関連した環境の問題,生物モニタリングによる環境汚 染の調査や野生動物の保護,伝染病予防等に関する環境衛生,環境にかかる家畜衛生 など,環境における諸問題に実践的に取り組む応用科学分野の一つであると言えます .寄稿にあたり,獣医学における環境教育について考えてみたいと思いますが,何分 若輩者にて,獣医学全体を網羅することにはまだまだ未熟であり,私感ではあります が,自身の関連分野である獣医衛生学・公衆衛生学を中心に述べてみようと思います .
1. 獣医学における環境教育
いうまでもなく,健康 とは肉体的に健全であるだけでなく,精神的にも社会的にも健全な状態をいいますが ,獣医学は動物の健康学を通じて社会に貢献することを第一義的な目的としており, 獣医学においても,環境要因は生体要因,病因要因とともに動物の病気の重要な三大 要素の一つです.学生諸氏には基本的な概念として,ウイルスや細菌をはじめとする 病原微生物などの病因要因,これらに対する宿主の反応性・年齢・性別などの生体要 因だけでなく,これら2要因に相互に関与する”環境”要因の重要性についても十分 理解してもらう必要があります.例えば,環境の悪化は生体の病原因子に対する防御 反応あるいは抵抗性を低下させ,また病原因子を増悪させる結果として生体に病気を 起こす可能性を高め,逆に衛生的環境は生体の抵抗力を上げ,また病原因子を減弱さ せる結果として健康を維持することが可能となります.
獣医学はこの環境 が大きく関与する応用科学分野の一つであり,基礎獣医学,応用獣医学,ならびに臨 床獣医学の3つの分野に区分することができますが,どの分野においても環境に対す る概念的なものだけでなく,環境保全に対する実践的内容が多く含まれるているよう に思われます.すなわち,各分野のどれをとっても多かれ少なかれ,1)環境要因が どのように生体に影響を及ぼすかを捉え,2)これに基づき環境がどのような状態に なっているかを調査し,3)環境の変化に基づく健康への影響に対してどのように対 処するかの,3つの段階を常に念頭におき,獣医学関連分野における環境諸問題に取 り組むための教育と研究を実施している言っても良いのではないでしょうか.おそら く,獣医学科では環境保全に対する各個人に必要な心構え的なもの,例えば,”天然 資源を大切にする”,”環境汚染の防止”,”省エネ”,”リサイクル”などなどを 学生諸氏に対して直接教える機会はあまり多くないと思われます.しかしながら,動 物の健康を考える上でこのような基本的な概念は重要なことであり,学生諸氏は講義 ,実習,あるいは研究を通じてこれらの事柄を学びとって欲しいと思います.
前述したように獣医学の目指すところは,動物の健康学を通じて社会に貢献する ことであり,獣医師としての立場からは衛生獣医師(公衆衛生ならびに家畜衛生関連 )と臨床獣医師,ならびにその他として大学・研究所等に属するものに分けて考える ことができます.衛生獣医師は具体的には家畜の健康を通じた食品生産の安定と向上 ,人の健康に直接影響する食品の安全性の確保,環境衛生,人畜共通感染症および家 畜伝染病の予防,動物愛護関連(これは臨床獣医師と重複します)などの諸問題に取 り組んでおり,行政と密接な関係にあります.臨床獣医師はその中心が動物診療です が,産業動物関連では疾病対策だけでなく,健康・衛生管理なども含まれ,衛生獣医 師と関係深い分野と考えられます.また,犬や猫を中心とした小動物(コンパニオン アニマル)関連では,社会・精神衛生上必要とされる動物医療だけでなく,疾病予防 ,動物愛護関連,アニマルセラピ−と関連した人と動物の関係学などの諸問題にも関 与しています.これらに加えて,獣医学関連諸問題に教育・研究の面から取り組む大 学・研究所関連の獣医師があり,なかには比較医学的見地から,環境の生物モニタリ ングや野生動物の行動学,あるいは野生動物疫学など,実際に環境と深く関わる研究 を行う獣医師の方もおられ,獣医師の役割と言っても極めて複雑多岐にわたることが わかります.しかしながら,それらの根底には環境保全という考え方があり,各分野 の獣医師は生じる諸問題に対して常に連携して対応しています.獣医学科学生諸氏は将来 獣医師の資格を取得し,これらの分野の何れかに属した仕事に従事することになると 思いますが,大学では獣医学関連の諸問題に対応して実践行動できる知識と技術を身 につけるだけでなく,これらの知識の根底にある基本的概念をも身につけ,獣医師と しての責務を全うして欲しいと思います.
2. 衛生獣医学領域における環 境教育
所属する家畜衛生学教室では,家畜衛生学,獣医公衆衛生学とそれ に関連する分野を担当しています.家畜衛生学は一般に,産業動物の生命と健康に直 接または間接的にマイナスに作用する生物的,環境要因を排除し,種々の病気や障害 から安全に保ち,健康を増進させて生産性を高めることを目的とした実践科学である とされています.講義の内容としては疾病予防,環境衛生,管理衛生,飼養衛生など 環境との関係を抜きには語れない分野であり,具体的には一般環境要因(空気,水, 気候,土壌,光など),畜産廃棄物(レンダリングなど),畜舎汚水処理,騒音,飼 料衛生(中毒など)が含まれます.また,これに伴う家畜伝染病予防法,薬事法,飼 料の安全性の確保及び品質の改善に関する法律,家畜保健衛生所法,獣医師法など様 々な法規とその行政があり,学生諸氏は環境を含む衛生概念と理論,ならびに技術と 実践を学ぶことになります.
また,公衆衛生とは,国民の健康を肉体的, 精神的,社会的に良好に保全することを目的とされており,獣医公衆衛生学は獣医学 的立場からこれに貢献する分野です.すなわち,臨床や家畜衛生を通じて家畜の疾病 対策や生産性の向上をはかり,質のよい動物性食品を供給し,人の生命維持,疾病の 予防,健康の増進に役割を果たすこと,ならびに食品衛生の立場からその安全性を確 保し,さらに毒性物質や環境因子が生体に及ぼす影響を動物実験医学的,疫学的に解 析し,環境に対する生体の反応様式をも病態生理学的に解明するなど,これも環境と 密接な関係にある学問分野であると言えます.講義の内容としては,具体的には疫学 と疾病予防,人獣共通感染症,食品衛生(食品添加物,食中毒を含む),環境衛生, ならびに公衆衛生行政と関係法規があり,前述の家畜衛生と重複する点も少なくあり ませんが,前者は集団としての家畜を中心とした衛生学であり,後者は人に関わると ころが中心となる学問分野であると言えます.両分野とも環境を含めた幅広い知識が 要求される分野であり,学生諸氏にとってこれらの科目を完全にマスタ−することは 難しいかも知れませんが,環境を含めた基本的な概念を見失うことなく,論理的なら びに実践的に構築して学んで欲しいと思います.
以上のように, 獣医学教育自体が環境教育に密接な一分野であり,おそらく,これは農学教育全体を 通して同じことが言えるのではないでしょうか.最後になりましたが,獣医衛生学実 習では上水(実習室の水道水)ならびに環境水(通称”学長の池”の水)を用いて水 質試験を行い,水質基準の把握と基本的な実験手技を修得するとともに,重金属廃液 の分別等を実施しています.ここでは実際に各自で試薬を作らせ,慣れない化学実験 らしき手技で行っているため,思いもよらぬ異常値が出てしまったり,手技上のミス から想像以上の廃液が出てしまうこともあります.あ−でもない,こ−でもないと言 っているのが聞こえてきそうですが,実習で学生諸氏が環境保全に関わる常識と法律 等に照らし合わせて実践的に’考える’力を養えればと思っています.