6.『「受益者(?)」(?)』負担の原則
教養部 門倉 正美
今年の2月頃の教官会議のことだったたろうか。排水処理センター運営委員の先生からの報告で,特殊廃水処理に要する費用を「処理廃水量に応して負担する」従来の方式から,「大学全体で負担する」方式に変更したい旨の提案がなされた。たしかに,排水処理は大学の総力をもってあたるべき事柄だから,その提案の趣旨には賛同できたが,提案理由として委員の先生がまとめておられた二つの点には,多少ひっかかるものを感Lた。 一つは,「沈殿池や余剰汚泥に重金属の蓄積がみられる」という点である。本誌l,2号を見ると,l97l年に環境汚染等防止対策委員会が発足して以来,「山口大学は,地域社会の範となるべく,学内から一切の汚水を排出しない」という基本方針のもとに,排水処理センター運営委員会をはじめとして,実際に実験等で排水処理にかかわる理科系の先生方が汚染防止という点でいかに御努力をかさねてこられたかがよくわかる。また,排水処理センターのデータ分折の結果も,「現在のところ,大学は九田川底質に影響を与えているとする明確な証拠はみいだせなかった」(『環境保全』l号,p.56.)「生活排水口から出る排水が九田川に影響しているとの確証は得られなかった」(同2号,P.l0.),と報告している。ただし,l号の報告では,「大学排水口付近における九田川底質に二,三の金属の濃度が高くなっていることは今後も注目していく必要があろう」と若干の懸念が表明されていた。今回指摘された「重金属の蓄積」が,九田川への排水に悪影響を及ばす種類のものでなければいいのだが,と素人としてつい心配してしまう。それに,大体,この種のデータで「明確な証拠」があらわれるときは既に手遅れとなっているというのが,一連の公害における教訓だったのではないだろうか。風聞によれば,大学が汚染防止に本格的にとりくみだしたときの九田川には魚の死骸が浮き上がることもあったらしい。こうした点では,現在の九田川はどうなっているのだろう。水俣の悲劇を猫の狂死が先触れしていたというエピソードにうたれる素人目には,川の汚染のデータは化学的なもののみでよしとはせずに,生物学的・生態学的な視点がほしい気がする。さらには,九田川水利組合の人たちとも少なくとも年に一回は連絡をとって,実際にその水で農業を営んでいる人たちの感覚を確認しておきたい。過大な注文かもしれないが,広い目でみれば,こうした努力もまた,「開かれた大学」の基盤をなす営みとなるのではないだろうか。 次に気になったのは,「処理廃水量に応して負担」という従来の方式は,一種の「受益者負担」といえるが、廃液を保存したり・搬出したりする不便さ・煩わしさはとても「利益を受けている」などといえる事柄ではなく,「排出者=受益者」などとされるのは心外だ一‐一という提案理由である。たしかにそうだろうな,まして以前は,林先生が本誌l号の冒頭で回顧しておられるように,「実に気楽にものを捨て,流し」ていたのだから,とも思う。しかし,公害や環境汚染,さらには地球規模での廃物処理のゆきづまり状況などが明確なかたちで指摘されている現在,環境にたいしてきわめて破壊的な効果を及ばしかねない物質をあつかっている人たちがいまだにそうした感覚を根っこのところでひきずっていて果たしていいのだろうか。原子核と遺伝子核という「二つの核」をあつかう先端技術がかかえている問題に先鋭なかたちであらわれている科学者の「社会的責任」の問題をわが身にてらしてふりかえらせる,いわば日常の中の小さな刺がこの「排水処理」の問題なのかもしれない,などとまたまた素人の無責任さで半可通な問題意識を披露してしまう。環境を汚染しかねない危険な物質を自由にとりあつかって,さまざまな実験ができるということは,そのためにどんなに煩わしい作業を後にしなければならないとしても,やはり「利益を受けている」のではないだろうか。それは,基本的には,別に誰のためでもなく,自分自身の「知的好奇心」をみたすためにしていることなのだから。また,「社会のため」とか「学問そのもののため」に,その種の実験をしているという殊勝な人なら,よけい「社会の〔安全の〕ため」・「学問の〔名誉の〕ため」に排水を慎重に処理せねば,ということになるはずである。こうして考えると,排水をきちんと処理するということは,別に「地域社会の範となる」というほどの崇高な事業では決してなく,自分の「知的好奇心」の排泄物を自分でちゃんと始末するという躾の次元の問題なのではないか,という気すらしてくる。そして,実験の廃水処理の仕方などをとおして,学生にこの種の躾をほどこすことは,廃物処理の問題〔エントロピーの問題〕を通じて世界規模で人間の生活のあり方が根本から問われている現在,決して程度の低い教育ではない。