nil actum reputans,si quid superesset agendum
4.挙 棋 不 定
排水処理センター長 林 謙次郎
鳥之将死,其鳴也哀。人之将死,其言也善。という言がある。その真意はよくわからないが,死に臨み,世の富や栄誉から解放された者の言は「善」であるという単純な内容ではないように思う。この言で憶い出されるのは新約聖書にある一つの出来事である。全ての希望であると信じてきた師が十字架にかけられ,さらに三日目にはその屍さえ墓から消えた。例えようもない哀しみの深淵につき落とされた二人の弟子が悲しみのエルサレムを離れてエマオという村に往きつつ,エルサレムでの出来事を語り合っていた。そこへ一人の男が加わり,二人の話題を訊ねたのち,かの出来事を旧約の予言から説き起し,その成就であることを詳しく説明した。エマオにつきなお先に行こうとするその男に「我らと共に留れ,時夕に及びて,日も早や暮れんとす」と懇願し,タ食を共にしたとき,二人の目が開かれてその人がイエスであることを悟ったのである。そして二人は互いに言うのである。「途にて我らと語り,我らに聖書を説明し給えるとき,我らの心,内に燃えしならずや」と。
世俗の習いから解放されるばかりでなく,エマオへの道すがら二人が経験したような,心に燃えるものがあってこそ「その言や善し」となるのではあるまいか。
閑話休題。私が排水処理センター長に任ぜられてはや二年を過ぎた。大学での許される勤務も残り僅かとなり,全てにおいて夕に及んでいるのであるが,内に燃えるものの無いいま,その言が「善」となり得ようがない。そこで,私が関わってきた山口大学環境汚染等防止対策委員会の発足から排水処理センター設立までの経緯並びに現状を述べることにしよう。
どのようにして定められたのかその辺の事情は知らないが,吉田キャンパス沿いに流れる九田川に魚が浮き上るのが目立ってきた1971年7月に環境汚染等防止対策委員会規則が定められ,9月にその委員会が発足した。公害の権威,医学部野瀬教授が委員長となり,まとめ上げた答申('73.9)「山口大学の排水処理について」の骨子は,山口大学は地域社会の範となるべく学内から一切の汚水を排出しないとの基本方針を定め,第1次計画として特殊廃水処理施設の設置,第2次計画として生活排水の浄化処理対策の検討,及びそれに必要な人員確保と管理体制の確立等の要望であった。
第二期目からは工学部中西教授が委員長となって,さきの答申の基本方針に則り,要望事項の実現化に努力した。九大と三西開発K.K.との協力によって開発された施設に倣って特殊廃水処理施設が設置されたのは'76年5月であった。このような施設は工学部近くに置くのが普通であるが,山口大学は三地区に分れて位置しているために事務局のある吉田地区に設置された。施設設置に伴う技官の増定員は何故か山口大学の場合認められなかった。そのため暫定内規によって,施設管理は施設部長,施設取扱いは中西委員長がそれぞれ責任を負うこととした('77.2)。引続き,吉田地区に生活排水処理施設が設置され('77 〜 '78),吉田地区構内の排水が雨水,生活排水,実験洗浄排水の3系統に分けられ,又,実験洗浄排水の水質監視モニターも設けて有害物質が流入したときには速やかに応答,無害化できるようにした('79)。生活排水処理法はすでに広く検討済みの技術であるとされてか委員会の協議題となったことは殆んどなく,報告事項として取り扱われていたように思う。
特殊廃水と生活排水の両施設が設置されるに及んで新たな規則の制定,関連規則等の見直しが余儀なくされ,小西学長は就任後間もなく構内排水処理に関する総括的諸規則の案作りを委員会に諮問され,施設運営の責任を全学的協力の下で担当する態勢を整備するよう併せて要望された('78.5)。案作りに際しての若菜局長と在山学部からの専門委員別けても経済学部永倉教授の尽力は多とするところである。'79年8月に委員会としての最終案がまとまって答申,10月9日の評議会において排水処理規則,排水処理施設管理運営委員会規則等が決定した。学部長,教養部長,病院長,両短大主事及び事務局長からなる施設管理運営委員会が'80年2月に開催され,農,工両学部長がそれぞれ正,副委員長に就任,排水処理に関する実務的責任を担当されることになった。'77年10月,中西教授が委員長の任期を了えられて以来あいまいであった排水処理全般に関する責任の所在がこれで明確となった。
当該運営委員会規則に則って設けられた専門委員会が運営委員長中山農学部長より,排水処理施設管理運営要項に定める「取扱主任者」として化学系教官を採用する場合の問題点とその対策についての諮問をうけたのは'80年11月である。教育,農,教養,理からの委員の間で合意されたことは,(1)排水処理施設を教育・研究の一施設として位置づける,(2)取扱主任者を指導,助言し,協力する組織を必要とする,ことであり,そのために「センター」を設けることが望ましいと答申した('80.12)。
このことが学内で話題となったのは,施設管理運営委員会,環境汚染等防止対策委員会双方の正,副委員長が学長,事務局長,施設部と懇談した'82年4月以降のことである。事務局の検討結果,関連規則の見直しなしには「センター構想」を実現することができないということもわかった。
学長,施設管理運営委員長の要望とはいえ,環境汚染等防止対策委員にとっては,努力して定めた諸規則を3年も経ずして再び改正することに斉しく釈然としない思いを抱いたのは当然である。しかし他に適当な策も見出し得なかったので'82年7月に委員会を招集し,学長諮問に対する委貝会としての対応を協議した。諮問を受けることを了承した委員会は即刻諸規定の見直しに着手し,l2月に成案を得て答申,'83年2月の評議会において現行の通りに決定したのである。
'71年9月以来'83年10月迄の12年間環境汚染等防止対策委員会に委員として加わり,うち4年は副委員長,6年は委員長として協力して来た私はヤット当該委員会から解放されることとなった。
ところが,自らが関わってきた規則等によって重い荷を背負わされる羽目となった。”出乎爾者反乎爾者也”の格言通り,3月に発足したばかりの排水処理センターの長になることの要請をうけた。
センターが動き出して最初に戸惑ったことは「排水処理センター規則」に対する条文理解の相違であった。すなわち,排水の処理とそれに関する調査,研究,教育等排水に係わる一切のことをその業務とすると定めた第2条に力点を置く施設部と,センターにセンター主任の他必要な職員を置くと定めた第3条が満たされたのちに第2条が生きてくると主張するセンター側との意見の不一致であった。排水一切を任されたセンターは,日常業務として休むことなくのし掛ってくる生活排水への応答に全く心身共に疲労した。私は環境汚染等防止対策委員として”共通の言”を持とうと,公害防止主任管理者や水質関係第1種公害防止管理者の資格を取ったりしたが,生活排水処理に係わることなど全く念頭になく,従ってその知識にも欠けていた。そして一方,生活排水の処理水について瀬戸内海環境保全特別措置法に基づく県条例によって割りあてられたCOD規制値が1日 40L,濃度 50ppm,また九田川水利権者に対して大学が提示した値がシアン0.1ppm以下(以後単位ppmを省略),有機リン化合物不検出,カドミウム 0.01以下,鉛 0.1以下,6価クロム 0.05以下,ヒ素 0.05以下,SS 30以下,BOD 20以下,そしてpH 5.8〜8.6('77.8)であり,しかも自動監視計測機器が老朽化しており十全に機能しなかったことなどが苦痛の原因となっていた。生活排水に関して多くのエネルギーを費して2年を経たが状況は何等克服あるいは改善されてきている訳ではない。いま分ったことの一つは7年間も絶えることなく使い込んできた機器は最早騙しようがないということである。「センター構想」が話題になった頃語り合った事柄,それらにいま何一つ手が染められていない。自らの怠慢もあるが,どのような歩みを為すべきかということや学内の意志を疎通させる手だてにも苦慮している。例えば環境汚染等防止対策委員会がはじめにうら出し,今に継承されているT学内から一切排出しないUとした「汚水」とは何かということへの共通理解さえ未だないように思う。そもそも「汚染」をどのように理解すべきか。ContaminationもPollutionもその内容に明確な差はないとは思うが何となく後者には人間臭が漂うてくる。そこでもし「対象Aに対象外からある物質Bが非合目的的に附与されることによって,対象A中のB成分濃度が何等かの方法で認める程に増加してきたとき,対象AはBによって汚染されたといい,このような汚染をContaminationといおう。これが進んで,対象AのB成分が何等かのかたちで人間に係わりをもつようになったときの汚染をpollutionという」(地域研究山口,'79)とすると,「汚水」を云々するためには先ず大学排水の四囲の環境に対するContaminationの状況を弁えておくことが必要となろう。特殊排水の十全なる回収,増える排水への対処,処理費用の低廉化,処理方法の改善,水質汚濁防止法の対象外物質に対する応答,有用物質の回収等々,さらには排水処理費用に対する妥当な負担方式の確立など,重い気持が心を離れない。私の所属する研究室の諸君はその労を惜しむことなくセンターに協力してくれている。吉田地区構内排水の年毎の水質分析,カドミウム,鉛,銅,マンガン,亜鉛,コバルト,ニッケル,パラジウム,ビスマス,タリウム,オスミウム,テルル,ヒ素,アンチモンさらにはルテニウムなどの分離に関する基礎的研究など。施設部も協力を惜しまないといわれる。しかし,自ら働くことなしには心の重荷は軽くなりそうにない。亡き若菜事務局長の言が今尚耳朶に残っている。先ず行動して幾許かの成果を出せ。次にわれらの努力に期待せよ。と。働いて成果を生み,排水センターに実験室を設けて通常の機器,器具を揃え,学生の学習の場にも利用できるようにしたいとも願っているが,いまや雲厚き夕を迎えてしまった。鶏皮鶴髪を願いつつも鶴骨鶏膚の身となってしまった。
排水処理センターは山口大学の責任を果すべく全学の協力の下に設けられた機関であり,その使命は重い。その長として心燃して抱負を述べ,嚠喨たる喇叭の音を高らかに響かせるべきところであるが,附託不效,衰えた者の心の哀しみは深く,鶴唳の憶いは如何ともし難い。
排水処理センター運営委員別けても編集委員の尽力によって『山口大学「環境保全」』が上梓されることになった。本誌が学内の環境意識の昂揚と環境問題の前進に強力な武具となることを信じるが故にこの刊行を心からよろこび,その労苦に感謝すると共に,二年前にこれの刊行を約束しながらそれを反故にしたことを衷心からお詫びしたい。