11.雑感

理学部 佐々木 義明

 ContaminationとPoIIution

 環境に負荷された汚染物質は地球化学的,生物学的物質循環のサイクルに入る。負荷量の少ないうちは認められる程の変化とはならないであろうが,負荷量の増加はやがてサイクルに微小変化をもたらしcontaminationの状態となる。さらに負荷量が増加するとcontaminationは人に被害をもたらす段階,すなわちpollutionへと質的変化を遂げる。いわゆるair pollution,water pollution,soil pollutionなどなどenvironmental pollutionといわれるところのものである。

 「公害対策基本法」では「事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染,水質の汚濁,土壌の汚染,……によって,人の健康又は生活環境に係る被害が生ずること」が「公害」だと定義され,法律の整備をはじめさまざまな「公害」対策が講じられてきた。

 しかし,実施された対策はいずれも被害が顕在化してから,すなわちpoIlutionの状態になってからの対策であり,後手に廻った不十分なものだといわざるを得ない。このことは「公害対策基本法」での「公害」の定義の必然的帰結だともいえよう。「公害」対策を真に実効あるものにするためにはcontaminationの段階で手を打たねばなるまい。

 濃度規制と総量規制

 「公害」対策にはさまざまな取り組みが必要である。その中でもっとも基本的かつ根本的な対策は環境への負荷を少なくすることであろう。事実,負荷量自体を制限する総量規制と濃度に制限を加える濃度規制の2通りの方式で負荷量を制限していることは承知のとおりである。

 濃度規制の考え方の根底には,低濃度の負荷であるならばたとえ持続的に負荷されようとも環境の自浄能力内でうまく処理され,contaminationを引き起すことはあってもpollutionには至らないのだ,との判断があったものと思われる。

 しかし,環境に排出された汚染物質が土壊や底質に濃縮・蓄積され,そこでの農作物に汚染をもたらすこと,あるいは食物連鎖の過程で汚染物質を数万倍にも濃縮した汚染魚が出現する事例を私たちはよく知っている。

 濃縮過程が介在するこのような場合,汚染物質の排出濃度を低い水準に押えても,例えば排水などでその排出水量が極めて大であればそれらの積すなわち負荷量は大きな値となりpoIIutionを引き起すこととなろう。したがって,汚染をcontaminationの段階にとどめておくには総量規制の考えに立脚した対処,すなわち,可能な限り負荷量を押さえることが必要だと私は思う。具体例で考えてみよう。

 吉田キャンパスからの排水量は約700トン/日である。六価クロムの濃度規制値は0.15ppmであるから,これらの数字をもとに法律上排出可能な年間の六価クロム量を単純に見積ると130Lとなる。六価以外のクロム(規制値2ppm)なら510L排出可能である。私の所属する研究室で消費する六価クロム量は年間0.5L程度である。主にガラス器具類の洗浄用としてクロム酸混液の形で消費している。他の研究室での実態は知らないが.吉田キャンパスで総消費量が先の数字を超えることはあるまい。だとするならば,少量ずつ計画的・持続的に廃棄・排出するだけで特別の処理をしなくても,吉田キャンパスから出るすべてのクロム廃液を排出することが法律上可能である。クロム以外の有害物質についても同様のことがいえるであろう。しかし,毎年毎年何l0Lものクロムを垂れ流して環境が汚染されない筈はあるまい。濃度規制ではなく総量規制の必要性を痛感する所以である。

 幸い,山口大学ではこれらの廃液を回収し重金属を沈殿除去している。そこでは,ただ単に法律上の濃度規制値をクリヤーすれば良いというのではなく,可能な限り環境への負荷を少なくしようとの積極的姿勢・努力がある。この姿勢に大学の良心を見るのは,吉田キャンパスへの統合移転直後より今日まで,九田川の変化を見続けてきた私の感傷だろうか。

 排出者負担と受益者負担

 さて,このような姿勢を堅持するにはそれなりの費用も必要である。とかくお金の要ることになると「受益者負担」という言葉が飛び出す。そして,「受益者」=「排出者」との短絡をしばしば耳にする。

 排出者側に身を置く私は,廃液の保存・搬出によりどのような利益を受けているのだろうかと考え込む。ただでさえ狭い実験室に廃液タンクが並び,実験の後片付けもわずらわしいものとなった。廃液の保存にも随分と気を使う。だが,受益者であるとの自覚はない。あるのは環境を汚してはいけないとの思いだけである。

 もしも排出者に費用負担が重くのしかかるようなことになれば,濃度規制値を盾に実験廃液を垂れ流すことは目に見えているように思う。来るべき日に備えて今から廃液量をセーブ(?)しているとの声も聞く。事実,実験洗浄排水処理施設の沈殿池にある底質や生活排水処理施設の余剰汚泥にはいまだに重金属の蓄積が見られるという。環境保全の課題には,排出者の努力が不可欠なことは当然であるが,全学的合意のもとでの理念の確立や協力もまた必要条件ではなかろうか。