環境教育は何をどう教育すればよいのか?

医学部 川崎 勝

 筆者は旧教養部時代に「地球環境と人間」という名前の「総合コース」(現行カリキュラムでは「総合科目」と呼ばれるようになったが、要するにオムニバス形式の講義のこと)のマネージャー役を3年にわたって担当していた。また、少人数のゼミ形式の授業でも環境問題を扱っていた。そして、現在、医学部において「医療環境学講座」という名称の講座に所属し、医学部の3年生を対象に「医療環境論I」というやはりオムニバス形式の講義を担当している。
 つまり、山口大学に赴任してきて今年で6年目であるが、その間一貫して名称に「環境」の語を含んだ教育を担当してきたことになるし、また、今後もそうなるであろう。
 それにしても、そうした職責を負っていたのにもかかわらず、無責任であるとの批判を怖れずに告白するならば、実のところ「環境教育」の名の下に何をどう教育していいのかよく分からずに思い悩むことが多かったし、今現在も思い悩んでいる。
 そもそも、「環境」という言葉がくせ者である。これは極めて多義的であり、早い話、同じ「環境」の語が用いられていたとしても、用いる人や用いられる文脈によってその意味するところ(あるいは、指し示すこと)や用い方が全く異なることは全然珍しくない。むしろ、最初から場合によって異なるものであると覚悟していた方が無用の混乱を避けられるようにさえ感じられる。
 言うまでもないことだが、「environment」は動詞「environ」、すなわち「取り囲む」の名詞形である。したがって、「environment」の本来の意味は「取り囲むもの・こと」ということになる。ただ、実際には、水や大気、さらには気候までもを含んだ「自然環境」をもっぱら指す言葉として用いられる場合が多い。そして、この用法が支配的であるにもかかわらず、他方では、原義に遡り、例えば形容詞の「social」をくっつけて「social environment」とすれば「社会環境」の意になるし、その略語として単に「環境」が用いられる場合もある(余談だが、これは「science」の語の用いられ方ととてもよく似ている)。はてまた、現在私が担当している「医療環境論」のように原義そのままの意味で「医療を取り囲むもの・こと」の意味で用いられている場合も多い。
 これだけでも、既に十分に諸々の誤解を招きやすい状況ではあるのだが、取りあえず問題を支配的な用法である「自然環境」の意味に限って「環境教育」に関する問題を考えてみたい。近年「環境教育」の必要性が声高に叫ばれるようになった背景には、明らかに、いわゆる「地球環境問題」が深刻化しているという社会的認識が一般的なものとなったという事情が存在する。「それが悪化している」という認識が出発点である以上、「それではどうしたらいいのか」という点がポイントにならざるをえない。どうしても具体的で実践的な解決策が要求されるわけである。
 けれども、まさにこの点にこそ現在の環境教育が抱え込む主要な困難さが由来しているように思われる。このことは、60年代末から70年代初頭にかけてのいわゆる「公害問題」と比較すると分かりやすい。諸々の点で不備な部分があったとはいえ、公害問題の場合、直接的な汚染に対する対策法を見いだすこと、そして実際に一定の対策を行うこと、さらにその対策が一応の効果をあげることは比較的簡単に可能となった。それが多大な苦痛を伴うことであったことはきちんと認識しておかなければならないが、それでも実行が可能だったのである。その理由もまた比較的簡単に見て取れる。要は汚染源の特定が容易であり、その分対策も立てやすかったのである。早い話、元を絶てばよかった。具体的には、様々な法的規制や、逆に規制を守った企業への報奨制度を整備する社会的対策がとられたし、また規制を守るための技術的革新も次々と成し遂げられた。
 ところが、現在の環境教育が対象としなければならない事態、すなわち今日「環境問題」と呼ばれているものは、ほとんどこれと正反対である。環境が悪化しつつあり、それが緊急かつ重要な課題であるという点の認識だけはかろうじて成立しているように感じられる(もっとも、この点ですら危ういのではないかと感じられる場合もままある)が、その問題の複雑性(複合性)・多様性により、その総体を把握することはいかなる個人でも不可能ではないだろうかとの思いに駆られる。いわんや、直接的で効果的な具体的対策となると、絶対に不可能だとは断言できないものの、局所的な対策を別にして、以前の場合よりもはるかに困難であることだけは確実であるように思われる。
 他方で、環境問題を取り扱うことを謳った講義を担当すると、もちろん受講生により受講理由は多岐にわたるものの、学生たちの多くが効果的な解決策を期待していることがひしひしと伝わってくる。
 告白すれば、この点に関しては、環境問題に関する講義を担当していると常に強いプレッシャーを感じ続ける点である。筆者も、劇的で全面的な解決策があればいいと思うし、もしあるならばただちにそれを提示したい。しかし、端的にそれは「ない」のである。
 結局、現時点では、「環境教育」と言っても、あたうる限り多用な視点から、環境問題の背景、発生のメカニズム、現状、場面ごとの対応策といったものを提示していくのが限界である。そして、直接的な「解答」を提示できない以上、学生の反応を見ながらできるだけそれに上手く対応していくしかない。ただ、自分自身、実際に対応していて一番頭を悩ませたのは、こちらが彼ら・彼女らが期待する「正答」を持ち合わせていないことを素早く見て取ると、期待からの反動としてすぐに「どうせ何をやっても無駄なんだ」といとも簡単に環境問題への絶望に走ってしまうことであった。こうしたタイプの学生は決して
例外ではない(多数派というわけでもないが)。
 こういった反応は極めて短絡的ではあるのだが、もしそのまま放置するならば、そもそも環境教育など受けない方がずっとよかったということになりかねない。そこで、手をかえ品をかえしながら大体大筋において次のような話をしていた。これを拙文のまとめに代えたい。

 確かに、少なくとも環境問題には簡単に解決策は見つかりそうにない。けれども、それは、当然のことながら、この問題をこのまま放置しておいていいことを意味するのでないし、実際に多くの人々が真剣にこの問題に対処しようとしている。根本的な解決策がすぐに見いだせないのは決して問題解決にあたっている人たちが怠惰なためではなく、一重に問題そのものが複雑で多岐にわたることによる。平たい話、われわれ自身の卑近な日常生活におけるライフスタイルから、極めて高度な政治判断が要求される国際政治の舞台で決着がはかられるべき問題まで、すべてに関わってくるのが現在の環境問題なのだ。したがって、その解決法も、まさにわれわれの足下のレベルの事柄から全地球的レベルの事象まで、すべての現状をチェックし直し、その大部分を根本的に改めることしかない。そのための第1歩が、多用な視点から問題の総体を捉え直すことなのであり、まだ、問題の把握に着手したばかりの段階で諦めるのは早すぎる。
 問題解決のための第1歩を踏み出す手段、それが環境教育なのである。こちらが提供できるのはほんのわずかなことに過ぎないが、それを生かすも殺すも君たち次第である。是非主体的に問題に取り組んでほしい。