環境問題に対して建設的に取り組む姿勢とは?

                   人文学部人文社会学科 人間論コース 4年 伊藤彰

 今、環境問題やエコロジーが大々的に取りざたされている。なにしろ、我々が日常生活をすごすなかで、「エコロジーな現状」に出くわさない日はないほどだ。家の中でテレビをつければ環境保護を題材にした番組がたびたび放映されているし、その番組の合間に流れるCMでは「河を汚さない洗剤」「空気を汚さないガソリン」だのが何度も宣伝され、「地球にやさしく」というフレーズがやたらと聞こえて来る。外に買い物に出れば、CMに出ていた「地球にやさしい」商品が棚にズラリ、それを詰め込む袋にも「この袋は焼却しても有害ガスを出しません」と記されていたりする。今や、どこもかしこもエコロジーでいっぱいなのである。
 さて、このように国民的関心事にまで高まった環境問題であるが、本稿では、この問題に対する時の考え方や立場について考えてみたいと思う。上述したような「エコロジー」な商品を買うことから始まり、割り箸の不使用、風呂の残り湯の再利用など、日常生活のちょっとした気遣いでできることから、多摩川でのサケの放流などといった市民運動まで、環境問題への取り組み方には実に色々なものがある。そういった様々にある取り組み方を改めて見つめ直した上で、なるべく建設的で前向きな取り組み方を摸索してみようと思うのである。
 「建設的で前向きな取り組み方を摸索する」という提言を聞いて当然提出されるであろう疑問は、「じゃあ、エコロジー運動に前向きでないものがあるのか」という疑問である。エコロジー運動は、環境を気遣うという目的の下に行われるものなのだから、それに前向きも前向きでないもあるわけないじゃないか、というわけである。
 しかし本当にそうだろうか。たしかに、エコロジーに関心を持ったり行動したりすればもうそれだけで既に前向きであるように思われている節がある。だが、たとえば使っているシャンプーを植物素材のものに代えたくらいのことで「前向き」と称するのは、少々口幅ったいものと感じられないだろうか。この「口幅ったい」という表現がまた微妙なところで、まったくもって前向きではないと断定しづらい所がありながらも、かといってやはり、簡単に見過ごすとそれなりに問題が生じてくるのである。それがどういった問題なのかは後に明らかにするとして、とりあえず論を進めていこう。
 非常に簡単な問いから始めよう。現在これほど大規模に環境問題が取り組まれているが、実際に環境はよくなっているのだろうか……謎である。いや、そもそも「環境」とは具体的にどの場所を指しているのだろうか。改めて考えると、我々が想定していた環境とは、漠然とした「地球」であったと気付かされる。環境問題を取り扱ったテレビの番組で映される乱伐された森林・どろどろした海や河・広大な砂漠といった、どこの国のどの場所かわからない、「乱された自然」の象徴としての地球である。我々はその地球に対して「やさしく」しようとしているわけだが、しかしそれはなんとも抽象的な作業で、それこそテレビドラマのようなものだ。いったい具体的にどう「やさしく」しているのか、よくわからない話になる。
 たしかに、我々はマスメディアから得た知識(=専門家が伝える様々な論理やデータ)によって、その「やさしさ」をある程度は具体的にイメージすることができる。しかしながら、そのイメージはかなり貧困なものである可能性が高い。そのイメージの基となる知識が誤ったものであることを指摘する別の専門家が存在することはざらにあるのだから、うがった見方をすれば、我々がメディアを通して専門家から得た知識がどれほどの妥当性をもつものかわからない、といっても過言ではないだろうからだ。「ある程度の具体的なイメージ」を検証しただけでもかなりの不安材料を抱えているのに加えて、そのイメージを極めて漠然とした「地球」という対象に適用するのは、あまりに現実味の失われた話といわざるを得ない。
 だが、なにも環境問題に関する話のすべてがすべて嘘っぱちの幻だ、といいたいわけではない。何らかの政治的・経済的圧力が大きくかかっていないかぎり、その道のプロがはじき出したデータなら、一般人がわからなくとも、ある程度の妥当性があると考えてもおかしくはないはずだ。であるならば問題なのは、専門家が導き出した説を盲目的に信じることである。我々には確かに、専門的な分析能力はない。だが、だからといって盲信が許されるというわけでもなかろう。実際にその知識にしたがって何らかの環境運動をし、そこで現実的に環境がよくなっているのかどうかという検証がなされるべきではないだろうか。その検証無しに「やさしく」しているといっても、それはひどく物語りめいたものにしかならない。ある知識によるかぎりは、その知識の専門的な成り立ちを理解できずとも、その知識に対して自分なりに妥当性を確認するのが筋というものだろう。つまり、素人なりにもその妥当性を判断できる手だてを確保した上でないと、説得力や実効性のある「やさしさ」は獲得できないというわけだ。
 それでは、その検証(=ある環境運動がどのくらい実効性をもつものなのか)は、どのようにすればよいのか。それを考えようとすると必然的に問題となってくるのが、先程も触れた、地球という漠然とした(環境運動の)対象である。対象からして既に抽象的なものであるのだから、それに到る方法(=運動の具体的な中身)も抽象的になるのは当然である。すると我々の起こす運動を「夢物語」とならないようにするには、やはり対象に具体性をもたせることから始めるべきであろう。運動対象が、我々によってリアリティの感じられるもの、つまり身近にあって目前にすることのできる川や海や林など、にならないかぎり、検証は不可能であり、運動自体にもリアリティを宿らせることはできない。
 さて、では改めて、検証が可能でリアリティをもつ環境運動とはどんなものなのか。水質汚濁にまつわる運動を例にとって話を続けてみよう。油を台所で垂れ流しにしないとか植物素材のシャンプーに代えるなどの生活排水に関する環境運動をした後、川へとつながる下水道の化学的調査をする(してもらう)。そこで今までよりも環境負荷指数が低いデータを得られれば、その運動を続けていくうちに、目に見えてその下水道の変化を感じ取ることができるであろう。一応、その時点で、自らの運動の実効性を確認することができる。そこでそのやり方(排水の仕方)を近所にふれまわるなり、ビラをまくなり、役所にアピールするなりした上で、今度は川を調査する。そうするうちに、川は素人目にもわかるような変化を見せるだろう。
 ある運動(アクション)を起こす。それに対する、素人の我々にも実感できるような反応(リアクション)を得る。そこで確信をもってさらに運動を続けるなり広げるなりする。そしてまた反応を見ながら運動を……といった形で、アクションとリアクションを交互に重ねていく運動。これこそが、リアリティのある環境運動である。「今わたしのやっている運動は、めぐりめぐって地球のためになっている」という大きすぎる話をするよりも、「今わたしのやっている運動は、わたしの目の前にある環境を変えている」という、小さくはあるけれども確信のもてる話のほうがずっと建設的であるように思える。
 そう、確かに建設的である。しかし疑問なのは、果たしてここまでする人はいるのかということである。このレポートを書いている私自身のことを考えてみても、やはりここまではしない(したくない)と思う。では、やろうと思うものとそこまでしてやりたくないと思うものの線引きがどこでされるかといえば、それは運動が消費(の方法)の範疇に入るか否かであろう。「消費の範疇に入る運動」とはつまり、消費の仕方のあれこれを考え、できるだけ環境に負担をかけない消費方法を見つけてそれを実行に移す、というものである。そういうことならあまり抵抗なくできるだろう。なぜなら、それくらいのことであれば、比較的気楽に容易にできるからだ。もしこれが、消費の選択だけではすまずに、水質分析を専門家に依頼しに行ったり、ビラを作って配ったりという風な、個人の余暇を犠牲にしないとできない大掛かりな運動(=「消費の範疇を超える運動」)まですべきだとなると、たとえ環境問題にかなりの関心をもつものでさえも、エコロジーにまつわる運動に関わろうとする人はごく少数になるだろう。
 ではどうして、消費レベルにとどまる運動から消費レベルを超えた運動に発展すると、運動に関わる者が少なくなるといえるのか。それは、自分のなかで利害収支がマイナスになってしまうからだ。運動の中に、余暇に見合うだけの利が見当たらないのである。つまり簡単に言えば、そこまですると損をすることになるからそこまでやる必要を感じない、というわけだ。これは非常にすっきりした「合理性」である。そもそもごく普通の日常生活者は、自分が働いて生きていくので手一杯で、当面は自分の生活に直接影響を与えないことになどあまり頓着しないものである。但し、たとえば近所の水質汚濁がひどくなって、水道水に異変を発見したり、悪い時には公害レベルの異常事態にあったなら、真剣にその環境問題について考えたり運動したりするだろう。なにしろ自分の生活がかかっているのであるから、その場合は運動することが結果的には自分にとって利となることが明らかだからだ。しかし、当面は自分の生活に関係の無い環境悪化については、それなりの関心をもつくらいのもので、そこに大掛かりな運動に到るほどの気負いがあるわけではない。それがたとえば隣接県で公害が起ったとなると、やや真剣に考える。その時になっても何の関心も示さないのはさすがに不用心といえようし、逆に遠い国で酸性雨が降ったからといってそれに真剣になるのは少し不自然に見えないだろうか。
 こういった、単純ではあるけれども合理的な考え方をするのは、ある意味自然でかつ健全と言ってもいいのではなかろうか。現在の国民的規模での環境運動は、その大半が「健全な合理主義者」の手によってなされていると見てよいかもしれない。しかしその層によって繰り広げられている運動の中身・行程は、以前に述べた「リアリティ」を厳密な意味では組み込んでいないという意味で、残念ながらあまり健全と呼べるものではない。
 その大多数の合理主義者に比べれば少数派になるが、当然のごとく、ちゃんと消費レベルを超えた運動に携わっている人たちだって存在する。なかでも健全と呼べるのが、自分のなかで消費レベルの運動に利を見出して、合理的に運動している人たちの場合である。この場合には別に問題はないし、むしろ彼らをこそ本当の意味でのエコロジストと呼ぶべきであろう。
 そして、それとはまた別の意味合いを持って運動する場合もある。「健全な合理性に依る、あまり健全でない運動」の次によく見られるもので、合理性に依らない形で運動する場合である。これには、合理性という打算がないぶん、観念的な運動を展開する傾向が見られる。簡単に言えば、正義感の強い人が、自分の生活にも当面直接には関係ないことにも真剣に取り組んで運動するのがそれである。一見すると彼らは動機が純粋で、その姿勢からして前向きに見えるのであるが、往々にして正義の発動それ自身を目的・価値とすることが多く、実効性やリアリティの視点を欠きやすい。ゆえに、彼らの手に依る環境運動も、あまり建設的であるとは呼べない。
 こう見て来ると、最も望ましい建設的な姿勢・立場とは、消費レベルを超えた運動に自分なりの利点を見出し、自分の生活とのバランスをとって合理的に運動していくものであろう。これはたとえば、エンジニアが自分のプロフェッショナルとしての仕事をした挙げ句、それが環境保護・回復に有用な技術の開発に役立ち、同時にそれで自分の生活を成り立たせている、という場合である。いってみれば、我々一般人が運動する時の大半のパターンである「消費レベルでの運動」に対して、これは、プロとしての「生産レベルでの運動」といえよう。このような場合が最も理想的なのだが、これはだれにでも真似できるようなものではないのが残念なところだ。自分が職場でプロとしての仕事をするのが、間接的にでも環境運動に結びついていく、このような経路を持つ職種はごくわずかである。
 結論として、我々がとるべき姿勢とはどのようなものだといえるだろうか。実効性・リアリティというものを踏まえるかぎり、環境問題に対しては、あまりに単純だが真理でもある次の事実にしたがって運動するしかない。つまり、「できるだけ消費しない」という形での運動である。これならはじめから「環境に負荷をかけることを減らす」ということに対しての実効性が保証されている。というわけで結論としては、非常に消極的なものとなったが仕方が無い、最も建設的で前向きな環境問題の取り組み方は、なるべく消費しないことを心がける、なのであった。
 以上、常識的な考え方によると、環境問題に対しては上述のような結論が導き出せた。しかし、その結論、つまり「できるだけ消費しない」ように心がけるしかないという考えは、あまりにも当たり前すぎるものであり、誰からも「そんなことはわかっている」と言われそうな結論であるといえる。ならばむしろ、問題はその次なのである。言い換えれば、「そんなことはわかっている、でも…」と考えてしまうその「でも…」のむこうにこそ問題がある、ということだ。
 万人から承服される倫理目標・規範として「できるだけ消費しない」という考えがある。しかしそれはいったん承服されながらも、「でも…」という形で保留され続けているというのが現状だといっていいだろう。そこで問題になるのが、なぜ承服されながらも同時に保留扱いとなるのか、である。結論からいえばそれは、「できるだけ消費しない」という運動をとりたてて今すぐにしなければいけないという必要性をあまり感じないからであり、さらにいえば、「そうはいっても、やっぱり消費したい」と思っているからだ。今のような消費を続けていくと環境は悪くなっていくのは確実だろう。そうなればめぐりめぐって自分自身やその家族・子孫にまで害が及んでくるだろうことも想像に難くない。それはよくわかっているけれども、従来の(消費)生活スタイルに慣れきった私たちにとっては、ほんの些細な消費節制ならともかく、環境が良くなるほどの節制を要求されても困ってしまう…というのがわれわれ一般庶民の正直なところではなかろうか。
 このようにして我々は現在、そして当分の間は「保留」し続けるに違いない。しかし、我々が永遠に「保留」し続けるのは無理であることも、すでに明らかである。であるならば、このまま「承服」と「保留」の間で揺れ動いているしか術はないのだろうか。ある論者は次のように提言する。

 問題提起を転換してみたまえ。せっかく危険な原子力エネルギーまでも開放し、地球の生
 態系をここまで破壊して築いた文明の中で生きることが、なぜ我らが日々―――は楽しく
 ないのか?ストレスとフラストレーションだらけなのか?
                (浅羽通明『ニセ学生マニュアル[死闘篇]』p.141)

 まずは道徳感や正義感を抜きにして、最優先にしてきた自分達の生活スタイルを見つめてみる。すると、未だに満たされないもの(その多くは精神的なものだろう)が数多くあることを発見できるのではないだろうか。別に発見できなければそれはそれで何よりである。そのままの生活を続ければ良い。しかしもし発見した場合、より満ち足りた生活を送るためにも、その不満要素を何とか解消したいはずだ。その不満要素は、つきつめれば現在の資本主義システム下の「消費人」としての性格が色濃い生活スタイルに起因するものであることに気づく。そこで、不満の解消と従来の生活スタイルの維持を天秤にかけた挙げ句、スタイル是正に利が傾いたと判断できた時―――この地点に立って初めて、環境問題は各人にとって真に自分の問題につながりがあるものとして等身大に意識され、問題視されていくのだ。
 「でも…」と保留をかけてしまうのは、環境問題がその人にとってまだ他人事であると判断されているからである。その保留を解消するには、環境問題が我が事として認識されなければならない。この手続きを踏まないかぎり、環境問題に取り組むにあたってのあらゆる倫理的な主張は単なる机上の空論に終わってしまう。建設的な姿勢を獲得するための第一歩として、ぜひともこの手続きは忘れられてはならない。

【参考文献】
  浅羽通明『ニセ学生マニュアル[死闘篇]』徳間書店、1990
  北村美遵『地球はほんとに危ないか?』光文社・カッパサイエンス、1992

【追記】
 なお本稿は、山口大学人文学部人文社会学科において平成8年度の後期に開講された特殊講義・倫理学応用論(加藤和哉助教授担当)の試験で筆者が提出したレポートを草稿としてリライトしたものである。基本的に論旨そのものには変更を加えなかったが、字句や表現については所々修正を施した。