快適なにおい環境


理学部 渡辺雅夫

 平成7年度から共通教育の主題別科目「環境と人間」の一端を担当することが決まり、環境に関して自分なりに理解を深め整理する機会を得た。そして、「香りと人間」という開設科目を立て、公害問題の解決や防止策に例を見る消極的快適性の追及を越えた、より積極的に快適性を求める香りの世界を、嗅覚生理学を基礎とした視点で解説することを試みている。
 環境庁は悪臭公害の規制を行なう一方で、新しい考え方として「におい環境」という概念を導入し、地域における快適なにおい環境の創造に向けて調査研究を始めている。そのような時代背景の中、においと快適性に関する話題を紹介することにしたい。

嗅覚の特性
 嗅覚は、感じられたにおいを言葉によって表現することの難しい感覚であり、視覚や聴覚など言葉として認識される感覚とは異なる特性を持っている。においを表現する言葉がないのは世界共通と言われており、生活を振り返ってみても「イチゴの香り」「レモンの香り」など具体的な物にたとえて表現するか、「甘酸っぱい香り」のように他の感覚(この場合は味覚)の表現方法を借りて表現している場合が多い。「臭い(くさい)」は嗅覚特有の言葉ではあるが、不快なにおい、強いにおいなどに対して使う言葉であり、「こげ臭い」「生臭い」「薬臭い」と使われるように色々なにおいに対して、くさいという言葉を使っていることから特定のにおいを表す言葉ではないことがわかる。
 人間はにおいを識別して表す言葉を持たなかったわけであるが、においによる生理作用、心理作用は経験的によく知られており、いわゆる無意識のうちに強い影響を受けている。毎朝の歯磨きでハッカの香料成分にさわやかさを感じ、顔を拭くタオルに残る洗濯仕上げ剤の香料に布の柔らかさを感じ、お皿を洗いながら食器洗い洗剤の柑橘系香料に清潔感を感じている。日常生活のすべてにおいて嗅覚からの影響を受けており、快感や不快感として身の回りの状況を捉え、生理的な反応を起こしているのである。その生理心理作用の過程を科学的な言葉で論理的に説明できないのが現状である。

不快臭への対策
 公害のひとつに悪臭がある。日本では悪臭防止法の施行にあたり、1972年アンモニアなど5物質の測定法が定められ、その後も悪臭物質が追加されて1993年には22物質の規制基準値が決められている。悪臭に対する苦情は1972年をピークに減少傾向にあったものが、1993年以降は増加傾向に転じ、平成10年度の悪臭苦情件数は約2万件、対前年比38%増といわれる。これは、廃棄物の野外焼却によるダイオキシン問題等を契機として臭気問題への住民の意識が高まったためと考えられている。また、生活環境の構成要素として、においが注目されるようになったことも一因であろう。
 悪臭に対しては瞬時であっても悪臭が感じれれば苦情がでることから、平均的な濃度よりも瞬時値が重視され、リアルタイムの測定が求められる。悪臭対策には、におい発生源の特定とその低減化をはかることが大切であり、定量的目標の設定が考えられているが、現時点では実態調査結果を踏まえた地域別の状況を表す参考数値が提示に留まっている。においに関しては、機器による測定だけで捉えるだけでは十分でなく、官能検査という人の感覚を頼りに測定する方法も同時に行なわれている。それは、においに対する感じ方が人によって異なるからである。

においの好み
 においの好みに個人差があるのは、生後の生活環境や学習・経験の違いによるところが大きいと考えられている。それぞれのにおいに対する評価は、家庭環境や社会環境(地域文化)から影響を受けながら成長過程で形成され、さらに時間帯や行動内容によっても好む香りが違ってくる。たとえ多くの人が嫌うにおいであっても、ある人にとっては子どもの頃の楽しい思い出と結びついた快いにおいであることがある。同じ香りであっても人によって生理的な反応が逆転することがあり、それがその香りに対する好き嫌いと対応していることが知られている。
 においや味のような化学感覚は条件反射の刺激因子として効果的であり、記憶の中のイメージと結びついて、においをかいだ瞬間に過去の記憶がよみがえることがある。大学構内のキンモクセイがいっせいに花をつけ特有の甘い香りを放ち始めると、その香りでトイレの芳香剤を思い浮かべる学生達がいることを知り、私は複雑な気持ちになったことがあるが。

快適なにおい環境の創造
 生活環境における快適性の追及は、不快なにおいの消去に努める消極的な快適性追及から、快適なにおいを追い求める積極的な快適性の追及へと発展していく。それは時代の流れというより、個々の文化の中でファッションのように変遷しているようにもみえる。
 日本においても近年の芳香剤の普及や多様化には目を見張るものがあり、アロマテラピーやお香など香りグッズに興味を持つ人口が、若い年齢層を中心に急増している。前述した「香りと人間」の受講希望者数が多いことの一因がここにあると考えている。
 環境庁は新しい考え方として「におい環境」という概念を導入し、におい環境指針作りに取組んでいる(高橋達男、アロマリサーチVol.1,No.2(2000))。身近な生活環境における臭気の低減に取り組み、快適なかおりを積極的に守り育てる行動を喚起するため、維持・達成することが望ましい一般環境における「臭気環境目標」と快適なかおり環境を創造するための「かおり環境目標」の2つを定めた「におい環境指針」の策定に取り組んでいるといわれる。「かおり環境目標」については、定性的目標の実現に向けた取り組みを図るため、具体的な手法等を示したかおり環境普及推進マニュアルを作成し、地域においてその実現を目指す活動の推進を図ることとしている。身近にあるよいにおいを再発見し、住民、事業者、行政が一体となって、地域の快適なにおい環境を形成するための施策が必要であると考えられている。当然のことながら、各地域により、季節により快適なにおい環境は異なるのである。
 
生理心理作用の研究
 においによる生理心理作用の研究は、嗅覚生理学分野を含む周辺領域の研究に支えられながら進められている。1991年「日本味と匂学会」が設立され、1994年からは日本味と匂学会誌も発行されるようになった。筆者は学会設立以前の「味と匂のシンポジウム」時代から、会員としてその動向を見てきた。基礎、臨床、応用など各方面から研究されているが、研究者人口が少なく、進展はゆるやかであった。
 2000年2月から、香りの機能性(生理・心理的作用)と効用の学際的専門誌「AROMA  RESEARCH(季刊)」の刊行が始まり、2000年9月には第1回アロマ・サイエンス・フォーラム2000の開催が予定されている。学際的な研究体制が作られ、この分野の研究が発展することが、快適なにおい環境を創造していく基礎として大切