環境とコスト意識
山口大学副学長吉村 弘
いま環境がとくに問題とされるのは,人類の活動が地球的規模の広がりをもつようになり,宇宙船地球号を意識して,少なくともその中で人類の生命が永続的に維持できるような仕組みを意識的に作る必要が生じているからであろう。あるいは,環境への関心は,環境破壊の防止のために現在手を打っておく(コストをかける)ことが,今それをしないままで将来起こる事態へ対応する場合のコストよりも小さいという考えが基にあるといってもいいだろうか。
そうすれば,問題は2つある。第1は,本当に,いま何にどこまで手を打っておく方が,打たない場合よりもコストがかからないのかについて,大方の合意があるのだろうか。地球温暖化や「フロリダのワニ」など恐ろしい指摘が色々なされているが,コストに換算して示すと素人にも分かり易すく,身近になる。
とくに,何時生じるのか,どれくらいの時間かかるのかにも注意が必要である。ちなみに,いまの低金利を反映して,たとえば1%の利子で計算しても,千年後は現在の2万分の1の価値にも満たない。1万年後は,現在の1.6×10の43乗分の1の価値,つまり殆どゼロに等しいというのが,現実である。
推計は労多くして,結果は明確でなく幅をもったものになるだろうが,コストを示す地道な努力が要請される。これはまずは自然科学者の責務だろう。ただし,コストは本来いわゆる「社会的コスト」でなければならないが,これは言うは易く,測定は難しい。この方面では社会科学者も協力できるかもしれない。
第2は,「ミクロの合理性」の活用である。たとえ,社会全体では将来大変なことになると分かってはいても,ただそれだけでは動かないのが普通の人である。自動車に乗っているとガソリンを使って地球温暖化に拍車をかける,紙を無駄にしてはいけない,ポリ容器入りの飲み物を買うことは石油を使いエネルギーを使っている,生ゴミを出すとその処理に莫大なコストがかかる,しかも,その気になれば,少しの努力で今よりもっと節約できる。そのことは誰でも知っている。しかし,しない。
しないのには理由がある。しない方が自分にとって有利だから,「ミクロ的には合理的」だからである。もし,ガソリン,紙代・コピー代,ポリ容器,生ゴミ代が高価なら,あるいはポリ容器にディポジット制を採用すれば,ずっと節約するだろう。
自然科学者と協力して求めた環境破壊のコストに基づいて,現在すべきことが分かれば,それが実現するように,「ミクロの合理性」を前提とした上で,社会制度を考えるのは主に社会科学者の責務であろう。
最後に,そもそも,今のような資源多消費型生活態度がいいのか,これは,環境問題にボディブローのように効いてくるテーマだが,すぐれて人文科学者の責務であり,また,すべての人の問題でもあろう。
ちなみに,読者は自分属する部局の電気ガス水道代が1年間におよそ幾らかかっているか知っているだろうか,少なくとも考えたことがあるだろうか。これなくして,コスト意識を醸成することができるだろうか,真剣に環境問題を考えていると胸が張れるだろうか。環境問題は近いようでまだ遠いというのが私の実感である。それは,人々のコスト意識に最もよく現れていると思うのだが,間違っているだろうか。