たたら製鉄により作り変えられた中国地方の山地と平野
−自然環境の保全とは−

                              教育学部 貞方 昇

緑豊かな伝統的農山村の景観を保つ中国山地の「自然環境」にも、歴史を辿れば、場所により大きく人の手が加わっているという話。
中国山地ではかって「たたら」と呼ばれる和式製鉄が広く行われた。古くは古代にも遡るものとみられているが、近世初頭になって、格段に炉の改良が進み、高殿の中で大量の鉄を作れるようになった。原料の砂鉄はそれまで砂鉄層を掘るなり、川や海岸の砂の中から選り分けて採集していたようであるが、こうした需要増大に応じて、鉄穴(かんな)流しと呼ばれる砂鉄採取法が採用されるようになった。これは砂鉄分を含む風化花崗岩類からなる山地の麓に水路を引き回し、掘り崩した土砂(真砂)を水路に落とし込んで、比重選鉱法により砂鉄を凝集、採取するという方法である.
ただし、砂鉄は風化花崗岩類中にごくわずか、容積にして0.4%程度しか含まれない。そのため、大掛かりに山地が掘り崩されるとともに、莫大な量の廃土が生み出される事となった。時あたかも、徳川幕府が鎖国令を出し、南蛮、じつはインドから入ってきていた鉄地金の輸入が止まったこともあり、以来300年余、中国山地は大砂鉄産出地域になった。と同時に豊富な森林資源を利用して製鉄から鍛冶までを一貫して行う当時におけるわが国最大の製鉄・重工業地域となった。
 図1は、その間に掘り崩されたとみられる中国山地の鉄穴流し跡地の分布である。島根・広島・鳥取・岡山各県境が接する中国脊梁山地一帯に跡地は広く分布する。とくに、島根県の矢上町、同じく横田町、広島県の東城町小奴可、鳥取県日南町などが跡地の集中域で、その合計面積は1万9千ヘクタールに及ぶ。いずれの地でも数メートルから最大10メートル程度の厚さの掘り崩しが行われ、あわせて9〜12億立方メートルの廃土が生産された。
 ただし、跡地には水路が引かれているため、整地して流し込み田と呼ばれる水 田とされたり、水掛りが悪くとも切畑などと呼ばれる畑地として利用されることも多かった。図1の跡地分布の半分近くはそのような場所であり、山がちな中国山間地において貴重な農地を提供したのである。
一方、おもに河川に廃棄された土砂は、河床を高めて農業用水の取水を難しくし、少しの雨で洪水を起こしやすくする、また水田のなかに入り込むなどの振る舞いをした。岡山県の高梁川,鳥取県の日野川、島根県の斐伊川などの江戸期のそうした公害問題はよく知られている。ところが、河口部にまで流された土砂は州を作って、デルタなどを拡大させることとなり、そこが新田開発の対象地となったのである。
たとえば、斐伊川では河口が宍道湖に向け、約4キロメートル前進した。日野川河口では,いったん沖合いに出た砂が沿岸流や波浪によって打ち寄せられ、弓ヶ浜砂州の幅を太くした。瀬戸内側の高梁川でも、もとより遠浅の海を一層浅くして、干拓を容易にした。詳しくは拙著(『中国地方における鉄穴(かんな)流しによる地形環境変貌』渓水社、1996)を見られたい。
このようにみてくると、中国地方の自然環境を理解するには、おもに近世期の人間の営みである鉄穴流しによる大規模地形改変を無視することはできない。というより人間もまた自然環境を作ってきた担い手だったのである。今でも中国山地にすこし分け入れば、織り成す緑の山々のふところに青々とした水田と赤い石州瓦の農家のたたずまいを見ることができるが、中国山地に限らず、人々が具体的に古くからどのように自然に対する働きかけを行い,生活の場を維持してきたのかを、まずは学ぶことにより、今日的な課題である持続可能な自然との共生関係をより適切に考えることができるであろう。