冬ソナはなぜ人気が出たか
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冬のソナタとの出会い
 2003年当時アメリカにいたとき日本の情報源といえばインターネットしかなかった。その2003年のWEBページの冒頭をいつも飾っていたのが冬ソナである。最初これは一体なんだろうかと不思議に思っものであるた。
 ところが、アメリカの私たちの住所に郵便物を送ってくれる方が完全にヨン様にはまってしまった。その郵便物のなかには、ヨン様の写真が入っていた。ドラマを知らないその時分には、やけににやけた顔だなと思ったものだ。アメリカ滞在中はそのドラマをまったく知らないままであった。10ヶ月ぶりに帰国して、なじみのCD屋に寄ったところ、たまたまその時かかっていた曲が私の心情にぴったり合い、金縛りにあったように立ちすくんでしまった。「何という曲だろうか。」店員さんに聞きたかったが、恥ずかしくて聞けずにそのまま家に帰った。その話をした直後、家内が私の姉からいい作品だからと勧められて借りてきたビデオを見て驚いた。あの曲は、冬ソナのテーマ曲だったのだ。録画されていたのは3話からだったが、雪の日に死んだはずのチュンサンが現れるシーンに思わず見とれてしまった。

 雪には誰にも思い出があるだろう。意中の人に言い出せないまま雪と戯れた思い出とか。私にも小学校の時にその体験がある。結局最初に見たその3話だけではまってしまった。冬ソナの人気は、このチュンサン役のペ・ヨンジュンとユジン役のチェ・ジュの美しさに負うところが大きい。お似合いカップルであるこの二人を見ているだけでうっとりしてしまう。そして絶妙のタイミングに入ってくるところの、心情を奏でるメロディーがとてもマッチしている。
 


T なぜ受けたのか
 このドラマは全体の筋からすれば昔あった“君の名は”に似ていると言う。しかし、10年以上前だったか、まったく受けなかったのはみなさんの知るところである。それなのになぜ冬ソナは受けたのか。
 まずは主人公の美しさに尽きる。冬ソナという作品だけがいいなら、その役者が出演する以降の作品は受けないと思うが、ペ・ヨンジュンの出演する映画も、また催しも行くところ結構な人気である。友人の奥さんも確かにペ・ヨンジュンだから冬ソナを見ると断言する。でも果たしてそれだけだろうか。
 

1.同一視 −壊れる女性
 
 まずは登場人物モデルとの同一視である。自分もそうあたりたかったと思わせる理想の存在であるミニョンとユジン、そのなかでミニョンは能力だけでなく容姿にも恵まれ、方やユジンは長身の美人で、キャリアウーマンの憧れと思われる設定だ。そのお似合いのカップルがまさに視聴者に同一視を促してくれる。ドラマを見るときにはどちらかに同一化してしまうから、一人だけの世界、つまり幻想の世界に浸ってしまう。しかし実のところはその主人公に酔っているのではなく、自分自身を主人公に投影して、その姿に酔っていることが多い。


(1)ユジンの立場に身を置いていやされる女性

 ユジンはミニョンとサンヒョクという恋愛観の違う二人によって見つめられるが、結局ユジンはいつも誰かによって見守られている。女性がこのドラマに魅せられるのは、自分をユジンの位置に置いて優しさに包まれていやされたり、またこれほど人のために生きている人が多いことに気づかされて勇気づけられるからである。
 8話で誤解が解け、そしてユジンのためにたとえ自分に振り向いてくれなくても、ユジンさんのためにしたいという。ユジンが「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」と尋ねると、「愛していると言ったでしょう。僕ができることをしてあげたい。好きな人には愛されなくても、相手の望むことをしてあげたい。」という。これによって女性はとろけてしまう。
 また「僕を見て思い出に浸っても良い。死んだ人を自分に見て懐かしんでくれていい」、まさに道具にしてくれいいということか。また 話では、「このまましばらくユジンさんを見ていていいですか。ユジンさんが何の目的もなく僕に会いに来ただけだと思ってもいいですか。」と言われる。これほどに自分を思ってくれる人がいたら心地よい。これによって舞い上がらない女性の方がおかしい。

 一方で、過去にしがみついているユジンを見ると責め立てもする。
「同じ景色を見ても、ユジンさんは何を見ているのですか?悲しい思い出しか見ていないじゃないですか。世界は暖かくて美しいのに、孤独に生きるつもりですか?」これはミニョン自身に向かわそうとしているセリフであるが、この強引さも優しさのうちだろう。
結局、どんな選択をしても、つまり自分を選ばなくても、ユジンさんの味方ですからという。心底の優しさと、その優しさの中に見せる強引さで、世の女性は参ってしまった。しかしそれもペ・ヨンジュンの美しさあってこそであろう。

お母さんが壊れるという表現がある。
 これは心が奪われた証拠である。冬ソナを見る間の女性は、微動だにしないという報告がある。冬ソナは一番大切なものを満たしてくれる。「私だけを大切にしてくれる」ことを幻想の中で満たしてくれる。それと純粋な初恋。実際には、いろいろ打算が働いて現在の自分があるわけだが、それだけに純恋がなつかしい。冬ソナを通して遡って夢見る一人だけの世界。だから一人で集中してみるのが心地よい。


(2)冬のソナタに見る男の幻想
 スキー場で、ユジンがミニョンを密かに撮るあのシーンがある。男性からすれば、ユジンの潤んだ瞳から視線を一点に当てられる、その先に自分を置いている。そのスクリーン上にベージュのコートとマフラーを巻いた自分の姿を描いているのではないか。冬ソナファンの男たちは、現実には似ても似つかないのだが、密かに自分とチュンサンと同一化している。ひょっとしたら自分もあんな笑みを送れるかもしれないと。むろん自分をサンヒョクの立場には置いてはいまい。

 このことを人に言えば恥ずかしいが、人に知られなければそれだけで幸せだ。冬ソナはあくまで主観的に、錯覚しながら見ればこの上ないドラマである。だからテレビの前で見入ってしまう。
 なぜこれほどテープがすり切れるくらい毎日繰り返して見てもあきないのか。それは、これがドラマではなく、白昼夢に陥らせるための癒しのテープだからだ。ドラマ鑑賞ではなく、ヒーリングである。あくまで主観的だから幸せなのだ。あるいはラジオ体操の愛好者と同じで、毎日しないと物足りないのではないか。
 

2.主人公の変化とドラマの軸
 流れのおもしろさは、まずチュンサンである。それがデリケートな姿で現れ、そして力強く引っ張るそして凛々しいミニョンに変わり、またチュンサンの記憶が戻るに連れまた崩れてくる。だから前半部分のデリケートで不良っぽいチュンサンが好きな派と凛々しく積極的なミニョンが好きな派とに分かれるであろう。
そして次はユジンのしっかりとした軸である。ユジンがチュンサンとミニョンのどちらを恋しているか確かに揺れ動くが、結局ユジンはチュンサンよりも揺れが少ない。だから話の中軸はユジンである。ユジンは韓国女性のしきたりへのこだわりと自立の葛藤に悩む。ユジンは確かに言い訳をしない。それが彼女の一見優柔不断に見えて実は一途なところであり、このドラマの芯を作っている。だから結局ユジン中心の構成である。ミニョンはポラリスを見ればいいとユジンにアドバイスするし、自分がポラリスになると暗示するが、途中で動揺する。結局動かないのがユジンである。結局ユジンは最後までチュンサンを見ている。ユジンが一途な愛を貫くのが筋であるが。ときどき出てくる優柔不断さが逆にサンヒョクを苦しめる。まるで河合奈緒子のけんかをやめてを思い出す。(ネタが古い)

2人をサポートする配役も欠かせない。まずドラマを引きつけるのがプロの恋愛詐欺師チェリンの存在だ。チェリンが持ち前の狡猾さで2人の仲を引き裂こうとするほど、逆に二人に結びついて欲しいという願いが高まる。けなしてくれるライバルがいると自然とやる気が起こるものだ。そしていつも報われないサンヒョクの哀れで悲しげな表情が悲しみをそそる。確かにチュンサンとユジンが難なく結ばれたらあまりにそっけない。チェリンの恋愛詐欺師の真骨頂は19話に出る。「そんな別れ方では私全然嬉しくないわ。あなたに戻ってきてくれって言えないじゃない。逃げればいいじゃない」とさえアドバイスする。これはどんな手を使おうとも正々堂々と戦って愛を勝ち取りたいとするチェリンならではのセリフだが、一見自分を大切にしながら相手のことを一番に思っている。またサンヒョクのように片思いの人が自分以外の人になびくのを見て嫉妬心に苛まれる体験は誰にもある。ただサンヒョクがこの無駄な愛に費やした10年はあまりに長い。


3.俳優の演技 −ペ・ヨンジュンの笑顔とユジンの目
 またペ・ヨンジュンだからこそ出せるのかもしれないが、彼の笑みは心底優しい。それは役どころから来るものとは思えない。彼が2話の雪の場面と18話で海辺で見せたユジンの足を踏まないように戯れるシーンは、ひょっとして実物も同じではないかと期待させるに十分な自然なしぐさだ。隠しようもない人柄がそこに現れている。韓国はいまだに上下関係が厳しい。下のものがいつもお茶を入れる。特に40代以降の人たちには、そのような礼儀正しさも受けいれられた一因だろう。この優しさはちょっとやそっとでは現在の日本男優には出せないのではないか。いや出せたらおかしいのかもしれない。ダーティーハリーツーのクリントイーストウッドが見せるニヒルさも日本男優はまねできないように。

 さりげなく目を外に向けるヨン様は素敵だ。これは杉良太郎の流し目とは異質のもの。杉はその冷たさもその魅力のうちだが、一方のヨン様には暖かさがある。2話でユジンが放送室で踊るのを隙間から見ていたチュンサンのあの見上げた時の目に参ってしまった女性は多いだろう。私もそのさりげなく他方を見る目線をまねてみたが、家内から「同じ生き物とは思えない」と極評されてしまった。

 こまめでマッチョ、それでいて心底優しい男は、現在の日本では絶滅機種ではないか。雪をかぶるときの恥じらい、一方で地面を蹴る脚力の強さのアンバランスさが女性にはたまらないだろう。主題歌に途中で入るドラムの響きと、ヨン様の力強い蹴りがうまく呼応している。
 またユジンがミニョンの影にかいま見えるチュンサンを見抜く目はまねできない。頻繁に流す涙は本物の涙と言うから、並大抵の感情移入ではなかろう。感情の表出の激しい韓国人ならではの迫真の演技ではないか。
 

4.40代以降の女性に受けたわけ
 このブームは恋愛空洞化、恋愛失業時代と言ってよい40台からの女性が「私だって恋愛したい気持ちは十分あるわよ」と言って反逆ののろしを立てたようなものである。このドラマには性のなまなましさがない。こんな性が氾濫している時代に、キスさえはばかられる感じで、逆に性を完全に排除している。韓国ドラマは子どもにも安心して見せられると言われる。婚約者でさえキスを許さない雰囲気は、逆に性が尊いもののように思わせてくれる。そして同じ性でも若者が求めるような脂ぎった性でなく清らかな精神の性である。これなら40代以降にはもってこいだ。性欲は下り坂になった世代に、精神の恋は逆に旺盛だ。そして子育てに埋没したり、あるいはキャリアを積むのに忙しかった間においてけぼりにされた初恋の味、その封印してきた初恋の味を冬ソナは思い出させてくれる。日本の女性が今本当の優しさを追い求めてき結果だ。だから20,30代にはわからないかも。子育てが一段落ついて、しかも人生をふり返る余裕が出てきた40,50代が理想の優しさとは何かを求めた結果がこのドラマの人気なのだ。経済成長のプロセスでは夫を支えることだけが私の働きと思いこみ、夫から自分に優しい言葉をかけてもらおうなどつゆ思わなかった。しかし経済成長も終わって、本当の自分、そして理想の男性像をふと振り返りはじめたのだ。自分だけを思ってくれて、それもはっきりと愛情表現してくれる人を。今の旦那は、「今でも好きだ」と言葉で表現してくれるだろうか。まじめな人ほど冬ソナにはまりやすいというから、この秘めた思いはまじめな人にほど激しいのだろう。


5.構成員のバランス
 やはりペ・ヨンジュンとユジンの男女を越えた美しさが大きいが、チェリンの小悪魔的な魅力、そして忘れてはならないのがキム次長の存在である。会社にも必ずいると思うが、会社の周囲を和らげる触媒的な存在である。たいていミニョンが落ち込んでいる時に放つ癒しの言葉、「一杯、行きますか?」は彼の口癖だが、これほどに人づきあいのいい人は珍しい。ただキム次長に会社を任せていると、近いうちにつぶれそうだ。
 サンヒョクの心底アッシー君的な優しさは哀愁を誘い、語るだけかわいそうだが、これほど好きな人に最後まで尽くす姿はまさに仙人に近い。自分はサンヒョクのようにはなりたくないが、こんな人がいると思うと癒される。それにまた友達思いのチンスクにヨンゴクもチームワークに欠かせない。
 終局のところではみんながユジンの純愛を達成するのを支援する。ジェームス三木が三角なら角があるが、7角くらいだと丸くなるという。つまり人間関係が丸く収まるくらいに登場人物のバランスを取っているのも、ドラマが癒しにつながる点である。


6.映像とファッションの勝利
@景色のすばらしさ
 しかし全話通じてなんと良い景色を選んできたのだろう。そして音楽もこのドラマのためだけに託したものもある。つぎ込むエネルギーの量が違う。今の私が聴く音楽はこの冬ソナばかりである。そしてロケ地を思わず訪れたいと思わせてしまう設定には敬意を表したい。それと景色と配役の服装がうまくマッチしている。まただんだんと迫るカメラアングルもドラマにしては懲りすぎなくらいだ。

Aその都度変わるファッション
 スタイリストがすばらしい。ミニョンは出るたびに服が違う。マフラーを取ればいいのにレストランの中でもマフラーをぐるぐる巻きに。それもアメリカナイズされた衣装でコリアンを思わせない。アメリカとアジアをうまくミックスさせた味。心情は昔のまま、しかしファッションは現代風というのがいい。特にミニョンの服は、外の景色を借景としている。顔もユジン以上に化粧しているような気がする。これは天から降りてきたような雰囲気を出すためか。チュンサンと対比させるためにあえて変えたのかもしれない。これはスタイリストの勝利だろう。
 ただ韓国ほどには今の日本にはアメリカへのあこがれはない。
 

U 懐かしさと思い当たる節
 
1.復活した純愛
 まず考えられるのが純愛である。高校生の時代に出会った初恋の人と10年間恋いこがれるというのは現実的でない。だからこそ象徴的であり、現実には叶えられない願いが込められている。このドラマのあらゆる場面に思い当たる節がある。たとえば好きな人の前では、言い出せなくて態度がおかしくなりがちだ。コーヒーカップを持つ手が震える。好きな人の前では、思ってもいないことを言ってしまう。また好きな人をシャッターに収めたいが、それを知られたくない。好きな人の行動が気になって、ついその後をついていきたい。そんなユジンのぎこちなさが懐かしい。


2.自分の体験との重ね合わせ
 ドラマがシチュエーションを重視するように、ドラマの中に自分がしたのと同じ体験を見つけて魅せられる。人気の秘密は、そのように個人の体験に根づているのであろう。いわばドラマにちりばめられたあらゆる場面が自分の体験と織り重なり懐かしく感じさせる。


3.思い当たる節の具体例
 さらには恋愛の場面も思い当たる節が多い。それらは初恋、純愛、片思いにつきもので、誰にも心当たりのある、ぎこちない態度や誤解である。それらすべてがドラマのなかにちりばめられている。
 その中で印象的なシーンといえば、ユジンの場合、好きな人と座った座席に再び座るシーンとか、コーヒーを持つ手が震えるシーンとか、好きな人を密かに写真に収めるシーンとか、好きな人と同じものを共有したい気持ちである。また言いたいけど言えなくて心に封印していたことが思わず出てくるシーンがある。その圧巻としては、それまで態度の硬かったユジンが急に思い立って、「メガネをはずしてもらえませんか」とミニョンに詰め寄るシーンとか、また飲めないお酒を飲んで告白するシーンとか、酔って「好きな色は、好きな季節は」とかわいらしくからむシーンとか、がある。またミニョンでいえば、チェリンの罠によってユジンを誤解したミニョンがそれを解いていくとかも印象的である。

 さらにはいくら尽くしても報われないことにも思い当たる節がある。チェリンの言う「なぜみんなチュンサンのことばかり言って私のことは考えてくれないの」という訴えにも、自分がいくら尽くしても相手が応えてくれない寂しさを体験した人は、思わず共感してしまう。またサンヒョクが「言わなかったこと後悔していないよ」と嘘をわびるシーンにも、自分本意で生きたいけれども、それには罪悪感が伴いがちなのは誰しもが感じている。またサンヒョクがミニョンがチュンサンと同一だという証拠を掴んでも言わなかったことに対して「僕にとっても初恋の人だから」という。それぞれが相手のことを思うが、同時に自分にも振り向いて欲しいと願うのが本音だ。これは人間の正直な気持ちを吐露していて、思わず同情してしまう。

 結局、チェリンのように自分がきっかけを作ったのに結局は自分だけ外されてしまったり、サンヒョクのように引き立て役にしかなれなかったりと報われないことも多い。そのようなだれしも体験する人生の性(さが)をこのドラマは表している。このようにこのドラマはあくまで象徴的であるものの、共感をうながしてくれる要素が随所にある。
 封印された初恋にはいろいろな思いがちりばめられている分、読者それぞれがこのドラマから感動させられる場面が違う。たとえばこれは初恋だけにあてはまるわけではない。大切な身内をなくした人は、チュンサンが現れる場面で、亡き人に出あることを重ねた人もいただろう(高野,2004)またヨンゴクやチンスクのように友達を日々気遣いしている人に重ね合わせた人もいよう。


V 他者愛 −他人のために流す涙
 このドラマで一番印象に残ったのが他者愛である。自分本位で生きており、他者への関心も失った日本人には反省するものがあったのであろう。性をもて遊ぶ若者、生まれてくるもう一つの命のことを拡げて考えることができない。そんな風潮ゆえに、この韓国ドラマが評価されたのではないだろうか。

1.犠牲的精神、他者を思うこと
 この自己犠牲的な精神という面には、韓国の恨という民族性が影響している。韓国では傷ついた人であっても、人に復習したり、直接怒りを表出することは、社会的調和を乱すために許されない。つまり人は運命を甘受しなければならない。それが恨という精神である。その精神には、また朝鮮民族の持つ独自の自己感覚も影響している。つまりその自己や社会とは集団主義の中での「拡大された自己」あるいは「関連した自己」のことをさす。ユジンという一人の女性がチュンサンへの愛をまっとうする上で、これらのしがらみがいたるところに顔を出してくる。それもいわゆる理不尽な家族愛である。いまどき日本の土壌で表現するとしらけてしまう家族愛であるが、韓国の土壌だからこそ自然に受け入れられたのであろう。ユジンが悩むのもサンヒョクを切れないからであり、またサンヒョクも仕事を辞めさせればいいのに、最終的に決断できない優柔不断さがある。15話でヨンゴクが、サンヒョクが過去のチュンサンとどれだけ戦ってきたか知っているかと詰め寄る場面がある。また13話でも、なぜミニョンさんがそんなことを言ったかが僕にはわかる。チュンサンのことを忘れると約束してくれ。僕だってどんなにチュンサンになりたかったか。このような気持ちの表し方も恨のなせるわざだ。これも自己犠牲である。
 

2.必ず他者を思う構成
 実際には登場人物のすべてがいつもだれかのことを思いやっている。ユジンは過去のチュンサンであり、サンヒョクのお母さんはサンヒョクであり、またミニョンは途中から惹かれるユジン、そして母親であったり、またサンヒョクはユジンであり、ヨンゴクやチンスクはユジンとサンヒョクと行く末いつも思案している。またキム次長は落ち込むときのミニョン理事を絶妙のタイミングでサポートする。すべての人がいつも誰かによって思いやられ支えられている。悲しい場面が多いのにかかわらず視聴者の心を豊かにしてくれるのはそのせいである。確かに自分を思って欲しいのが一番だが、このドラマはそれ以上に相手のことを想っている。
 大林宣彦はあるテレビ番組の中で、このドラマではすべての涙が他者のために流す涙だと言っていた。
 
 



W 文化的な近さと違い
 
1.近くて違う国、韓国
 セリフにも韓国らしさは表れる。今時このようなキザなセリフは日本の俳優は出せないのでは。ミニョンがユジンに伝えたちゃんとご飯食べてとか。(これは韓国ドラマではよく出てくるらしいが)本当に好きな人に対しては最低限のことしか望んでいない。生きていてくれれば自分のものにしなくとも、それで満足という犠牲的精神。美しき日々のソンジェも同じだ。相手のために見せる涙。そしてこのドラマの俳優全員の心が一点に向かっている感じがする。もっとも韓国の俳優自体が他人のために生きている感じがする。だから過酷なスケジュールでも我慢できるのだろう。中には整形でもいとわない人もいるという。自分の体であるが、自分のものでない。サッカーのアン・ジョンファンがワールドカップの際に国を背負った重荷を告白していた。ファンの期待に自分を合わせ、ファンが期待するなら自己を犠牲にする。韓国の俳優は自分と国の両方を背負って生きている。これは、一方で厳しい階層社会を反映しているかもしれないし、ハングリー精神の元となるのかもしれない。
 自分らしさを出すのが一番という日本の俳優に比べて、韓国の俳優はその役に徹しているような気がする。日本の俳優はどのドラマ、映画を見てもその人らしさが出る。一方で、ペヨンジュンの役作りは主演するドラマや映画で違っている。


2.違和感のなさ
 これは日本と情景が似ているからと言ってもあくまで韓国の作品である。違和感はなかったのかというと、この作品には確かに違和感がない。まず同質なもので受け入れて、それから韓国独自の文化に関心が寄せられたのだろう。
 つまり最初の敷居が低い。この冬のソナタは人物の服装も、風景も日本のものと一見変わらない。チョゴリが出てくるのも婚約式の一場面だけだ。だから同化できた。ほとんどの人がまず日本語の吹き替えで見ただろう。そのように一度入ってしまうとそこから逃げられない。セールスマンの手口にfoot in the doorというのがある。いったんドアの中に入れてしまえば、もうセールスマンの思うつぼである。いったんなじむともっと違うことにも興味が湧いてくる。日本語翻訳に慣れた後は、オリジナルで聞いてみようとする。
 たとえばサッカーのアルベリックス新潟はまず誰でもいいからスタジアムに足を運ばせることを目的としたのと同じだ。垣根を低くしていったん入ると、そこから広がりが生まれる。
 また風景に多少ともまだ貧しさの残るのも懐かしい。これも高度経済成長のさなかで生きてきた40代、50代の女性に受ける要因ではないか。


3.しがらみが消えたようで消えていない日本
 日本であれば家族に反対されれば外国で挙式をしてもいい。それは親戚縁者のしがらみを嫌う若者がよく使う手口だ。それが日本では当たり前になっている。こだわること自体が不自然だ。以前の日本にも確かにこんなこだわりがあった。このドラマからうかがえる韓国は日本が進めてきた社会の変化の20、30年前の姿である。それを日本人が懐かしがって追っているのも事実である。
 韓国の方がもともと家族愛が強いようだ。他の韓国ドラマは殺人とかの重い罪を背負っている場合が多いが、このドラマはそれに比べて重くない。それもいささかマッチョな男がやさしさを見せるアンバランスさがいい。
 

X 韓国そして日本 −日本のドラマが追ったもの
 最近の日本映画は、アメリカのバイオレンスだけを追ってきたようだ。ところが、日本人が求めていたもの、特に40歳以上が求めていたものを韓国ドラマから思い知らされるとは何という皮肉だろう。アメリカで出会ったあるアジア系の人は日本の映画を見て、やくざばかりの恐ろしい国だと思っていたいう。逆に、冬ソナ現象を見て、日本のドラマ界、映画界はどう思っているだろう。
 バスが頻繁に出てくるのも懐かしいように、画面には多少とも貧しさが残っている。その懐かしさによって人気が出たのだろうか。日本の家族、友人間で失われたものが、韓国という異国の文化上でのみノスタルジー的に蘇ったのだろうか。ではどうしてこんなに受けるドラマが日本でできなかったのか。アメリカ追従型の日本ドラマがアジアの原点である家族愛で蘇るとは。このブームを見て日本の番組担当者は忸怩たる思いだろう。

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