防長二州の医学教育

山口大学医学部の源流
― 防長二州における医学教育 ―
中澤 淳

山口医学,第62巻・第1号(山口大学医学会.2013.2)

1.はじめに
 山口大学は,文化12(1815)年に上田鳳陽が開設した私塾山口講堂から始まるとして,2015年に創基200周年を迎える。大学を含めすべての組織においては,節目ごとに一旦その活動を振り返り,多くの人たちの参画により成し遂げられた成果を吟味し,問題を整理して,それ以後の活動計画立案に役立てることが求められる。山口大学医学部はその前身の山口県立医学専門学校創設が昭和19(1944)年であり,今までに開学10周年(1954),開学20周年(1964),創立30周年(1974),創立40周年(1984),創立50周年(1994)に記念式典が催され,30周年と50周年では記念誌も発行された。しかしながら,このような医学教育機関が67年前に忽然と現れたわけではなく,ここに至るまでのこの地域における先人の医学教育への夢とそれを実現するための努力が結実したものが山口県立医学専門学校であったはずである。それを遡っていくと,明治初期の混乱期における先人の医学教育活動から,さらには江戸時代の防長二州(周防,長門)におけるユニークな医学医療と教育の歴史にたどり着く。本稿では山口大学医学部の歴史をその源流にまでたどってみたい 注1
注1)防長二州の医学史については,平成9(1997)年6月6日に霜仁会館(当時記念会館)においてその落成記念に山口大学医学部創立50周年記念事業会の主催で順天堂大学医学部医史学講座酒井シヅ教授による特別講演「日本の医学の近代化と山口」が行われている。

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2.萩宗藩と支藩における医学教育
 毛利輝元が慶長9(1604)年に萩藩を開府して以来,多くの医家が萩宗藩および長府,清末,徳山,岩国の4支藩において藩医として登用され,伝統的な漢方医学を代々伝授してきた。また一方では,中国や西洋の新しい医術を積極的に取り入れ,教授し伝承させることも試みられた 注2
注2)幕末の時点で毛利藩には,萩宗藩(36万9千石)内に,長門の国に長府藩(8万3千石),清末藩(1万石),周防の国に徳山藩(4万石),岩国藩(幕末までは岩国領;6万石)と4つの支藩が存在した。毛利藩は,江戸時代初期から長崎に「聞き役」という出張所を設け,外国事情収集に努めた。また,藩内の海岸への漂着外国人は長崎まで護送してから本国へ送還することになっていたが(長崎送り),これに医家が同行し長崎で海外最新情報を収集して持ち帰っていた。江戸時代に防長二州から長崎へ遊学した者の数は他の地方からよりも多く,また,大坂,京都や江戸への遊学者数も他藩に比べて多かった。

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 たとえば,寛文4(1664)年には,岩国藩が明国人戴曼公を招聘し,池田正直に疱瘡治療法を伝授させた事は,全国的にも有名である 注3
注3)承応2(1653)年に明国から長崎へ亡命してきた戴曼公(たいまんこう)(1596-1672)は,医術に精通しているということで,寛文4(1664)年岩国2代藩主吉川(きっかわ)広正(1601-66)に招かれて当地で診療をおこない書道や詩文の教育に携わった。このとき家中の池田正直(1596-1677)に痘瘡治療術を教え,池田家はその後代々痘瘡の専門医となった。寛政10(1798)年には,正直から数えて4代目の瑞仙(1734-1816)が幕府に取り立てられ,痘科専門の医官となった。瑞仙の子瑞英,その養子霧渓も痘科として名をなし,幕末までに多くの著書を残した。

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また同じ時期に,烏田智庵のように長崎の西洋流外科を持ち帰り萩藩の医療技術向上に貢献した例もある 注4
注4)烏田(からすだ)智庵正通(1639-98)は武家の出ながら浪人の身であったため24歳の時発奮して長崎へ行き,西洋流外科吉田自休の門をたたいた。吉田流外科の後継者として嘱望され,また九州諸藩からも招聘されたが,故郷萩へ帰って開業した。その名声により防長二州を越えて入門するものも多く,2代藩主毛利綱広(1639-89),3代吉就(よしなり)(1668-94)からも格別の処遇をえた。烏田家はその後6代にわたり藩医として外科の家を継ぎ,また本草学や物産学で貢献する者も出た。幕末の烏田良岱(1804-79)は好生館における外科学教授として,また明治初期に烏田圭三(1930-1883)は華浦医学校長として防長医学教育に多大の貢献をした。

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 また,藩医栗山孝庵は宝暦8(1758)年,萩藩内で師山脇東洋に次ぎわが国で2例目となる人体解剖を行い,翌年にはわが国初の女屍解剖を行い,藩の医学水準の高さを全国に知らしめた 注5
注5)栗山孝庵献臣(1728-91)は萩藩7代毛利重就(しげたか)(1725-89)と8代治親(はるちか)(1754-91)に仕えた医官で,京都において山脇東洋(1705-62)に学び,さらに長崎に遊学した。東洋は宝暦4(1754)年に六角獄舎で人体解剖を行い,その所見を「蔵志」として著し,萩の愛弟子孝庵にもそれを贈った。孝庵は長崎で見た西洋伝来の解剖図がそれまでの五臓六腑図と違うことに気づいていたので,師の成果に感激した。そこで自分も解剖を行って確かめたいと考え,宝暦8(1758)年それを果たし,その所見を直ちに師東洋に報告した。翌年には女屍解剖が藩から許可され,約100人の医学関係者が見守る中解剖が行われた。それまで男は陽,女は陰であるから内臓の位置も男女では全く反対であると信じられていたが,実際に内臓は前年に見た男のものと全く同じであった。
 その後も全国各地で解剖が行われたが,蘭学の発展に大きく影響を与えたのは,江戸小塚原における腑分けを契機にクルムスの解剖書を翻訳し,安永3(1774)年に杉田玄白(1733-1817)等により刊行された「解体新書」である。

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 さらに,山脇東洋に師事した永富独嘯庵は赤間関(下関)の医家の出で東洋門下の逸材として世間に知られ,地元や大坂で開業の傍ら諸国を漫遊し西洋医学の重要性を指摘した 注6
注6)永冨独嘯庵(どくしょうあん)(1732-66)は豊浦郡に生まれ,赤間関の医師永富友庵の養子となった。江戸へ出て医学の修業をした後,京都の山脇東洋に学び,医学の新境地を開拓した。故郷へ帰り医業に携わり,また白砂糖の製造なども行ったが,29歳のとき病のため家を離れ諸国を漫遊し「漫遊雑記」を著した。長崎において西洋では病理解剖が行われること,乳癌が手術で治せることを知り驚き,自分の修めてきた医学(古医方)に欠けるところは西洋医学で補うべきであると漢蘭折衷の必要性を述べた。しかしながら西洋医学を本格的に学ぶことなく34歳で世を去った。

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 この間,享保4(1719)年に萩城内に藩校明倫館が創建され,防長の学問は大いに進展することとなったが,ここで医学教育は行われなかった 注7
注7)藩校明倫館を創設した5代藩主毛利吉元(よしもと)(1677-1731)は,長府藩3代藩主綱元(つなもと)(1650-1709)の嫡子から萩宗藩を継いだ。もともと長府藩には学問尊重の気風があり,吉元は明倫館の学生を藩士に限らず,一般にも聴講を許し,毛利藩における教育基盤を確立した。
 また,村田清風(1783-1855)を登用して天保の改革を実施した13代藩主毛利敬親(たかちか)(1819-71)は,天保12(1841)年江戸藩邸内に藩校「有備館」を設立し,さらに国元では嘉永2(1849)年に老朽化した明倫館の移築,再建および学制改革を実施した。明倫館出身者は藩政の重役に登用され,藩施策の実働を担う人材として育っていった。

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 文政6(1823)年,シーボルトが長崎に渡来し,防長の医家も何人かはその門をたたき西洋直伝の医学を学んだ 注8
注8)シーボルト(フィリップ・フランツ;1796-1866)はドイツ人で,ヴュルツブルク大学を卒業後オランダの軍医となって出島商館医員として長崎に着任した。長崎では市内に鳴滝塾を設け,全国から学生を集め医学教育をしながら,日本についての情報収集を行った。防長二州からその門をたたく者も多く,文政9(1826)年シーボルトが江戸参府のさい下関に立ち寄ったときには,門人等が集まり実際に患者の診療を依頼した。平生出身の門人岡研介(1799-1839)は鳴滝塾々頭を務め「生機論」を著したが,これはわが国にはじめて生理学を紹介したものである。防長における蘭学は,従来の長崎系のものと江戸系のものに西洋直伝のものが加わったということができる。

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そして同年,徳山藩は藩校鳴鳳館内に医学館を併置して医学の講義を開始した。これが防長二州における公的医学教育の始まりである。ここでは藩医ばかりでなく地下医(村医,町医)も藩医の門人になれば受講資格が与えられた。初期の講義は漢方医学のみであったが,後に萩宗藩が蘭方医学の講義をはじめてからは,漢方・蘭方両医学の兼修を決まりとした 注9
注9)徳山藩には天明5(1785)年に7代藩主毛利就馴(なりよし)(1750-1828)により藩校鳴鳳館が設立されていたが,文政6(1823)年にいたり,8代藩主毛利広鎮(ひろしげ)(1777-1865)が医学教育の必要を感じ,藩医松岡玄知(1789-1854)を医学取立方として医学館を開設した。初期には漢方医学のみであったが,天保14(1843)年からは,遠藤春岱を教授に起用して蘭方医学の教育もはじめた。医学館の講義は明治2(1869)年まで45年間続いた。

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 徳山藩における医学教育についてさらに特筆すべきことは,四熊家の「見学堂」である。文政6・7(1823・24)年ころ藩内には,総計6箇所の医師養成のための私塾 注10
注10)江戸時代の民衆教育は寺子屋と私塾で行われた。藩当局が開設した藩校や,上級武士が知行地に開講した郷校のような武士教育を主目的とするものとは異なり,寺子屋では読み,書き,そろばんなどの初等教育を授け,さらに私塾では寺子屋の基礎の上に立ち漢籍なども学ばせて上級の教養を身につけさせていた。防長二州では寺子屋および私塾の普及率は高く,寺子屋数は970(全国11,753),私塾は106(全国1,140)存在したという。

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があったが,中でも「見学堂」は蘭方医学も教える先進的な私塾であった。開塾期間は遅くとも享和元(1801)年から嘉永5(1852)年以後までの50年以上にわたり,四熊家9代俊方から12代謙方までの4代が塾主として教育と経営に携わっている 注11
注11)徳山藩内富田土井(現周南市土井1-1-1)の四熊(しくま)家は16世紀中頃から続く旧家であり,6代久左衛門為方休庵以後11代にわたり町医として家業を継いでいる。9代久左衛門俊方養庵は宝暦11(1761)年に長崎で阿蘭陀医術を習得し,地元に私塾「見学堂」を開校した。正確な創設時期は不明であるが,俊方死去が享和元(1801)年であるからそれ以前であることに間違いない。「入門式」文書には嘉永5(1852)年までの入門者総計62名の氏名が残されている。四熊家には,俊方の第8子道平が別館を設けて開いた道平一代の私塾「講習館」もある。10代久左衛門敬方(1758-1830),11代久左衛門義方世美(せみ)(1779-1839),12代久左衛門謙方文昱(1813-55)までが「見学堂」の教育と運営に携わった。13代直方宗庵(1833-1908)は大坂に遊学して儒学と医学を学び,地元に帰り徳山藩から医師の免許を受けて開業し,さらに戊辰戦争では徳山藩医として奥州,函館に従軍し功績を残した。四熊家はその後14代泰治,15代程作と続き,16代の濟夫(ますお)博士は昭和33(1958)年に山口県立医科大学へ四熊家古医書約300冊を寄贈された。現在は17代宗方氏が跡を継いでおられる。なお,四熊家と近縁の防府市宮市の市川家から山口大学第3代学長市川禎治博士(1898-1979)が出ている。

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 天保10(1839)年に萩宗藩では,蘭学に識見のある青木周弼が藩医となり,翌天保11(1840)年「南苑医学所」が創設された。ここに徳山藩の医学教育開始から17年遅れて,漢方から蘭方を包括する優れた教授陣による公的医学教育機関が誕生した 注12
注12)青木周弼(ちかすけ)(1803-63)は周防大島の出身で,三田尻の能美友庵,洞庵に医学を習い,江戸に出て坪井信道,宇田川榛斉(しんさい)に蘭学を学んだ。さらに弟青木研蔵をともない長崎にわたり診療を行いながら勉強した。能美洞庵の推挙により藩主毛利敬親に召し抱えられ,侍医となり,医学館長を勤めた。文久2(1862)年には,周弼へ幕府の「西洋医学所」頭取就任の依頼が来たが,高齢を理由に断り,代わって緒方洪庵がその職に就いたということである。
 萩南苑に設立された医学所では,漢方に加屋恭庵,蘭方に青木周弼と能美洞庵を配し,13名の教授陣により,素問,瘟疫論,十四経,傷寒論,医療正始,外科必読,翻訳,本草皓蒙,眼科新書などの講義が行われた。

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「医学所」はその後移転と新築が続き,名称も「済生堂」を経て「好生館」となった。一方,萩藩では時局にかんがみ西洋兵学の振興のために「好生館」に「西洋学所」を附属させたが、安政6(1859)年に機構を改組再編し,医学教育は「好生堂」で,兵学教育は「博習堂」で行うこととした 注13
注13) 博習堂において兵学教育に携わった大村益次郎(村田蔵六;1825-69)は,吉敷郡鋳銭寺村の医家の出身で,日田の広瀬淡窓,大坂の緒方洪庵に学び,宇和島,江戸を経て,青木周弼の紹介もあり萩藩に戻った。四境戦争,戊辰戦争で軍功を立て,新政府の軍隊創設に尽力したが刺客に襲われ,それがもとで命を失った。

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そして慶応2(1866)年藩政府の山口移転に伴い,医学教育機関も山口に移され「山口好生堂」となった。
 「好生館(堂)」は医学教育機関であると同時に萩藩における医療政策推進の一翼を担った。嘉永2(1849)年,長崎におけるモーニケの牛痘接種法成功後,直ちに萩の医学所(当時)において,藩内各地から医師2,3名ずつを選抜して種痘法の講習会を開き,予防接種の徹底を図った 注14
注14)嘉永2(1849)年6月29日に長崎において蘭医モーニケが牛痘接種に成功したことが萩藩に伝わり,急遽青木周弼は青木研蔵を派遣して9月21日に萩へ種苗を持ち帰った。これにより10月9日より医学館において種痘が実施された。

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また,安政5(1858)年とその翌年のコレラ流行のさいには,好生館(当時)の全員が治療と防疫に尽力した。好生館(堂)では,藩医のみならず地下医にも漢蘭二方を学ぶことができるようにした。一方,藩内では医を業とするものは,藩医,地下医を問わずみな好生館(堂)の管轄下におくこととしている。
 また嘉永年間に岩国藩では,種痘所の設置とともに藩医の子弟に主として蘭方を教える「愛知館」を開設した。
 このように,防長二州においては,萩宗藩ならびに支藩が,全国的にみて比較的早い時期に蘭方医学を取り入れた医学教育を推進し,藩内各地の医学・医療の水準を高める努力をした。

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3.江戸末期から明治初期の医学教育
 萩藩は,文久3(1863)年攘夷戦争に備えて下関に赤間関病院を設立し,戦傷病者を救護したほか,一般人に対しても治療を行った。また,外国並びに幕府との間で交戦状態に入ると,戦時医療対策を行った 注15
注15)文久3(1863)年春下関に設立した赤間関病院(総督赤川玄櫟(迂一),副督李家(りのうえ)文厚)は萩の好生堂の管轄下にあり,医員も軍艦の乗務医も含めて好生堂から順次交代で勤務していた。同年5月10日に始まる長州攘夷戦争では多くの傷病兵の手当や一般人の診療にも当たり感謝されたが,翌元治元(1864)年には仮病院となりやがて廃止された。その後も四国連合艦隊による馬関戦争,第二次長州征伐における小倉戦争では奇兵隊病院(長官松岡省記)として活躍したようであるが,慶応4(1868明治元)年から始まる戊辰戦争により戦場は東方へ移り,病院の果たす役割は軽くなっていった。

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 明治新政府のもと,明治元(1868)年2月からの薩長土肥4藩に始まる版籍奉還のあと,明治4(1871)年7月には廃藩置県となり全国的に政治体制が変動して行き,同年11月になってようやく山口県は今日の形に定まった。
 この間,新政府は明治2(1869)年にいち早く医学教育についてドイツ医学の採用を決めた。山口県では,医学教育に加えて病院および医療行政を総括する部局を医院とし,これに山口好生堂をあてた。これにより幕末の動乱期に各地諸隊に附設されていた病院は整理されていった 注16
注16)ドイツ医学の採用は,岩佐純と相良知安の建議を,明治2(1987)年に新政府が採用したことに始まる。一方,山口に移った医育機関は明治元(1868)年に山口好生堂付山口医院となり,烏田圭三,李家文厚,福田正二が引き続き医療活動の管理と医学教育において中枢的役割を果たした。とくに烏田圭三 (1930-1883)は,江戸で蘭学者伊藤玄朴に師事し,萩に帰って好生堂で蘭方医学を教えていたが,幕末から明治初期の山口県における医学教育の方針を指導した。一方,この年三田尻では三田尻洋学塾(博習堂と三田尻海軍学校が合併)において米医ベデルを招いて英方医学の教育を行っている。

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そして明治5(1872)年に県は,医学はドイツ式によることとし,漢方のみでは通用しないとの通達を出している。さらに同年に赤間関医学所を設置し,松本濤庵を教育と経営の責任者とした 注17
注17)赤間関医学所は赤間関医学校とも呼ばれることがあるが,その創設時期については明治3(1870)年6月に奇兵隊病院で活躍した松岡省記がはじめたとの説と,明治5(1872)年に山口県の委嘱を受けて松本濤庵が校長を引き受けた時であるとする2説がある。閉校時期は,明治9(1876)年8月県の方針により廃止が決まり,在校生が華浦(はなうら)医学校へ収容された時点である。松本濤庵(とうあん)(1813-82)は美祢郡出身で,津和野と江戸で蘭方医学を学び,防府で開業した後長府藩医として活躍した。明治3(1870)年隠居の身となっていたところ,洋医としての才能と人望が見込まれて医学教育の舵取りを任された。この医学校では,「生理発蒙」,「解剖講述筆記」,「シーボルト治療篇」などが教科書として用いられ,生徒数は300人を越えるほどであったという。明治6(1873)年5月,松本濤庵が辞職し,次席であった石井信一が後を襲い,これを浅山良輔が助けた。石井信一は下関の医家の出で,萩の青木研蔵,大坂の緒方洪庵に学び蘭方医学を修めた。維新の動乱が始まると,各地の野戦病院で働き,また戊辰戦争にも従軍したが,明治3(1870)年に赤間関に帰り開業していた。浅山良輔(1846-1900)は美祢四郎ヶ原の医家の出で,兄長峰玄瑞(1835-1920)とともに赤間関医学所に出入りしていた。浅山家は長府藩医とも関係が深く,その後は8代幡(はた)太郎,9代吾三,10代琢也と医家が続く。昭和39(1964)年に浅山吾三博士から山口県立医科大学へ浅山家において使用された古医書約400冊が寄付されている。

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また,この年全国にさきがけて医術試験(壬申考試)を施行したが,その第1号証書をうけた石井信一が,翌6(1873)年に赤間関医学所(校)の主任教師となった 注18
注18)明治5(1872)年5月に山口県により実施された医術試験は全国に先駆けて行われた医師開業医試験であった。この年の干支にちなんで壬申考試と呼ばれていて,山口好生堂医院長烏田圭三の建議によるものといわれている。受験の準備のためには,従来の漢方医学に対してドイツ医学を学ぶ必要ありとし,そのために各地に医学所(処)を設けることが指示された。医学所は書籍や教材を置き,医師の研修や親睦のための施設であった。

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 一方,厚狭地域では,明治5(1872)年に厚狭郡医師団が結成され,私立船木医学処を開設した。ここでも西洋医学の教育が行われたが,明治8(1875)年に船木医学社へと編成替えされ,医師団の組織のみとなった 注19
注19)全国各地に,開業医名簿を整備し医籍編成を容易にする目的で「医学社」が結成された。山口県では明治5(1872)年から3年間にわたり,行政区分として県内を21に大区と127の小区を編成していたので,明治8(1875)年に大区ごとに医学社を設置することとした。しかし,実際に設置されたことが明らかなのは前述の「赤間関医学所」,「船木医学社」および「萩医学社」であり,「第9区(佐波郡)好生社」の存在が示唆されているのみである。

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 新政府は明治7(1874)年に医制を布告し,西洋をモデルにした医事法,医術開業試験を制度化していった 注20
注20)明治7(1874)年8月に制定された医制76条は,文部省医務局長長与専斎により制定されたものであり,1条から11条までが医療衛生行政,12条から26条までが医学教育,27条から53条までが医術開業試験とその免許,54条から76条までが薬事行政となっている。これにより明治10(1877)年以降,医籍編成や医師開業試験が実施されていく。

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山口県は山口好生堂を山口県立山口医院とし,さらに同年にはこれを山口から三田尻(現防府市)に移して山口県立華浦医院とした。ここには華浦病院も開設され,医院の方を華浦医学校とし,烏田圭三,福田正二がそれぞれ校長,副校長となり医学教育にあたった 注21
注21)明治6(1873)年12月の県会において山口にあった山口好生堂・山口医院を三田尻に移すことが決まり,翌7(1874)年4月に医院を華浦(はなうら)医学校,病院を華浦病院とした。医学校は校長烏田圭三,副校長福田正二を中心にして,フランスから人体紙型模型(クンストレーク),顕微鏡,外科器械を購入するなどして,最新の西洋医学を教授し,多くの入学者を集めた。副校長福田正二(せいじ)(1845-1901)は萩好生堂青木周弼,研蔵兄弟の弟子で,大坂でさらにエルメレンスに蘭学を学んだ。華浦医学校での活動のあと明治28(1895)年には山口県医会々頭に推された。

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 しかし,明治9(1876)年になって山口県立赤間関医学校が廃止となり,生徒は華浦医学校に引き継がれていった。ところが,華浦医学校も明治10(1877)年に県経費節約のため廃止となり,その後は福田正二が私費で医学校を経営した。一方,明治13(1880)年県会は三田尻に医学校設立を決議し,山口県医学校が設立されたが,文部省「医学校通則」に適合しないという理由で明治16(1883)年12月にこれは廃止となった。
 これに先んじて明治8(1875)年に,山口県下各区に医学社を創設することになったとき,萩を中心とする第26区の医師達は,医師会と医学校を兼ねた萩医学社を設立した。この医学社を中核にして明治14(1881)年には県立萩医学校が発足した。しかしながら翌明治15(1882)年県会で校費予算が認められず廃校となった。
 その後県内では,各地の医師達が医療の向上のために連携して活動を続け,明治20(1887)年に山口県医会総会を開催し,その後明治33(1900)年の山口県医学会を経て,明治42(1909)年に山口県医師会を設立した。しかしながら医師養成のための教育機関を復活させるまでには至らなかった。

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4.宇部市における医学教育の開始:宇部医学専門学校設立の計画
 明治初期に医育機関が県内から消滅し,その後心ある医家による再興の努力もむなしく約60年が経過した。この間,明治・大正時代にかけて全国各地に帝国大学医学部,官立医科大学,私立医科大学,私立医学専門学校が設立されていった。昭和に入り,わが国の全体主義台頭と海外軍事進出の動きのなか,昭和14(1939)年に文部省は,将来の陸海軍々医不足を補充するため全国の帝国大学と医科大学に臨時附属医学専門部を設置することとした 注22
注22)昭和14(1939)年5月,政府は軍医不足を解消するために,東京,京都,九州,東北,北海道,大阪,名古屋の7帝国大学,千葉,新潟,金沢,岡山,長崎,熊本,京都府立の7医科大学に対して臨時医学専門部の設置を行った。入学定員は各150名で,男子学生のみを入学させた。これにより約2000名の医師増員を予定した。

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 こうした中,昭和15(1940)年に宇部窒素社長渡辺剛二 注23
注23)渡辺剛二(ごうじ)(1886-1959)は厚狭郡宇部村に生まれ,山口中学を経て,明治42(1909)年熊本医学専門学校を卒業し,軍医として勤務した後,父渡辺祐策(すけさく)の経営する沖ノ山炭鉱に医局を創設した。当時宇部で腸チフスが流行したことから大正5(1916)年京都帝大医学部選科で1年間細菌学を学び,帰郷後沖ノ山同仁病院を創立し経営にあたった。その後宇部市医師会長,山口県医師会長,山口県会議長,宇部窒素株式会社社長,宇部商工会議所会頭,宇部興産会長等を歴任し,昭和19(1944)年には宇部に医学校を作りたいとの若いときからの夢を実現するべく山口医学専門学校設立に尽力し,さらには山口医科大学後援会長を勤めた。遺言により遺体は医学研究に供する目的で同医科大学において病理解剖に付された。またわが国学術文化発展へ向けての渡辺の思いは「財団法人宇部興産学術振興財団」に引き継がれ,これまで50有余年にわたり医学・工学の分野で数多くの優れた研究に対する助成が続けられている。

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と沖の山同仁病院長水田信夫 注24
注24)水田信夫(1898-1963)は熊毛郡田布施町に生まれ,徳山中学、第三高等学校を経て,大正12(1923)年に京都帝国大学医学部を卒業した。さらに同医学部第二内科松尾巌教授の下で,消化器,肝臓の病態学研究を進め,同医学部助教授として松尾内科3羽烏の一人といわれる業績を上げた。昭和14(1939)年渡辺剛二に請われて沖ノ山同仁病院長として着任,昭和22(1947)年からは山口県立医学専門学校第一内科学教授及び同校附属病院長となり,山口県立医科大学に校名変更の後も附属病院長を勤め,多くの優秀な臨床医を育てた。俳人としても評価が高く昭和24(1949)年にはほととぎす同人に推された。

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,小郡町内科医山本辰隆は「財団法人宇部医学専門学校」の設立を企画した 注25
注25)「財団法人宇部医学専門学校設立要項」(設立計画者:宇部市渡邊剛二,同水田信夫,小郡町山本辰隆)は表紙と本文15頁からなるパンフレットで,日付は皇紀2600年(1940年)初頭となっている。国民の健康維持の目的に加えて興亜建設(戦時のスローガン)を視野に入れ中国語教育を取り入れ,4年制で各学年180名,計720名の定員で医学教育を行い,開校予定は昭和15年4月1日となっている。校舎は木造2階建て延438坪,附属病院は木造2階建て延600坪,敷地1000坪,職員は35名(漸次補充)で,設立予算としては55万円を計上し,基本金(10万円)の利子,授業料,寄附金,病院収入を維持経営費に当てるとしている。後日水田信夫の話として伝えられるところでは,この計画は文部省から国策上満州に作ってほしいとの意向が伝えられてその後立ち消えになったとのことである。

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渡辺は実業家であると同時に医師でもあり,宇部市医師会,山口県医師会の有力者であった。水田は県下熊毛郡田布施の出身であり,昭和14(1939)年に渡辺に請われて京都帝大医学部から,宇部市の沖の山炭鉱株式会社沖の山同仁病院に病院長として着任していた。渡辺,水田両人は防長の地に医学校を設置することの必要性を痛感していたので,医学専門学校設立計画に経験のある山本と図り原案をまとめた。本計画は実現しなかったものの,4年後昭和19(1944)年の山口県立医学専門学校創設ではその精神が継承されていったと考えてよい。

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5.山口県立医学専門学校の誕生
 昭和16(1941)年12月ついに太平洋戦争が勃発し,内外ともにより多数の医師を必要とする事態に至ったため,国は全国各地に医学専門学校の設立を指令した 注26
注26)昭和18(1943)年10月,東条内閣の閣議決定により「戦時非常措置」が公布され,これにより国立で青森,前橋,東京医歯,松本,米子,徳島,の6医学専門学校,公立で横浜市立,山梨県立,三重県立,大阪市立,奈良県立,和歌山県立,兵庫県立,広島県立,山口県立,福岡県立医歯,鹿児島県立の11医学専門学校に加えて,北海道立女子,秋田県立女子,福島県立女子,山梨県立女子,名古屋市立女子,岐阜県立女子,高知県立女子の7女子医学専門学校が設置されていった。

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山口県への通達にもとづき昭和18(1943)年,山口県知事熊谷憲一は県下に医学専門学校を設立することとし,宇部市を候補地に選び,沖の山炭鉱経営の同仁病院を実習病院とし,建設資金約250万円のほか将来建設する病院敷地約1万坪の予算を立てた。そして同年年末にいたり臨時県会を招集して,県立医学専門学校設立を可決した。
 建設資金のうち100万円は宇部市が負担したが,このうち50万円は当時県医師会会長であり宇部興産株式会社会長であった渡辺剛二の寄付によった。宇部市は病院建設用地を寄付し,また校舎として戦時のため閉鎖していた宇部市立商業学校を寄付した。建設資金の不足額の補充のため,山口県下の医師会,歯科医師会,薬剤師会等の医療関係団などからも寄付を集めた 注27
注27)昭和19(1944)年に出された「医学専門学校創設費寄附募集趣意書」を以下に掲載する。
拝啓 愈々御清適ノ段慶賀仕候
  陳者今回本県ニ於テハ県立医学専門学校ヲ開設スル事ニ相成り目下鋭意準備中ニ有之候処医師ノ養成ハ我国策中焦眉ノ急ヲ要スルモノニテ現下ノ状勢上真ニ必須ノ施設ト被存候 而シテ県当局ハ其ノ設立財源ヲ各方面ヨリノ寄附ニ求メ且ツ県下医療団ノ協力援助ハ設立認可上重大ナル要素ナルノ故ヲ以テ本会ヘモ熱烈ナル共鳴ト協力トヲ懇請セラレ侯 就テハ医療及保健指導ノ改善発達ヲ図リ国民体力ノ向上ニ関スル国策ニ協力スルヲ目的トスル本会ノ使命ニ鑑ミ極力之ヲ援助シテ其目的達成ヲ期シ国民保健ノ向上発達ニ積極的協力ヲ払ヒ非常時下ノ保健報国ニ一路邁進致シ度侯 本校設立ノ暁ハ防長医家子弟ノ教育上甚大ノ便宜ヲ得ベシト被考侯 更ニ想ヲ将来ニ馳スレバ本校ノ設備ノ改善ト内容ノ充実トニ由リテ早晩単科大学ニ昇進シ他方設立ノ比較的容易ナル農科大学理工科大学ヲ併立シテ総合大学ヲ設立シ県民多年ノ理想タル防長大学ヲ建設スルハ強チ痴人ノ夢ト断ズベキニ非ラズ 当局ノ意向必ズヤ茲ニ在リト信ジ本校ノ設立ハ実ニ防長帝国大学ノ基礎ヲ為スモノト被考候 各位ニ於テハ時局下出資御多端ノ折柄誠ニ申上兼候ヘ共個人的利害ヲ超越セラレ大乗的見地ヨリ医人養成ノ国策ニ順応シ第一線将兵ノ忠勇ニ応へ国家社会ノ要請ニ酬ヒ国家存亡ノ岐路ニ立ツ医人ノ意気ト覚悟ヲ示スベク奮ッテ御協賛ヲ賜り度比段切ニ懇願仕侯 敬具 昭和十九年二月廿五日 山口県医師会長 渡辺剛二  山口県医師会員殿

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 第1回の生徒募集には多数の志願者があり,その中から試験により130名を選び,昭和19(1944)年4月25日に盛大に開校式並びに入学式を挙行した。所在地は宇部市中宇部下宮地で,初代校長には元台北帝国大学医学部長冨田雅次 注28
注28)冨田雅次(まさじ)(1889-1967)は兵庫県加古川の出身で,大正3(1914)年京都帝国大学医科大学を卒業し,医化学教室荒木寅三郎教授のもとで胎生期の生化学の研究を開始し,ドイツ留学(Neuberg,Kossel両教授に師事)の後,同12(1923)年長崎医科大学教授,昭和11(1936)年台北帝国大学医学部教授となり,同年には「胎生化学に就いての研究」で帝国学士院賞が授与された。台北帝大では医学部長をつとめ,昭和19(1944)年山口県立医学専門学校長となり戦争末期から終戦までの混乱期の医学教育に尽力した。昭和21(1946)年からは神戸大学理学部教授,神戸女子薬科大学教授を勤めた。

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が任命され,力武一郎(ドイツ語),中村正二郎(医化学),尾曽越文亮(解剖学)等が教授となった。
 県立医専の創設にあたっては,直接的には地元に医学教育機関を設置することへの宇部興産社長渡辺剛二と沖の山同仁病院長水田信夫の強い熱意に加えて,水田の母校徳山中学の先輩である京都帝国大学医学部教授内野仙治 注29
注29)内野仙治(せんじ)(1894-1957)は下松の医家に生まれ,徳山中学,第五高等学校を経て大正7(1918)年に京都帝国大学医学部を卒業し,直ちに医化学教室に入り酵素学の研究を開始した。昭和4(1929)年にドイツへ留学し(Wieland教授に師事),帰国後昭和6(1931)年には京都帝国大学化学研究所教授,同11(1936)年長崎医科大学教授,同13(1938)年東北帝国大学教授を経て昭和16(1941)年から京都帝国大学医学部医化学教室教授として母校に帰り昭和32(1957)年まで教育研究に尽力した。この間京都大学化学研究所所長や京都大学医学部長を勤め,昭和32(1957)年には名古屋市立大学学長に選ばれたが2ヶ月後に急逝した。

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とその親族であり当時軍需次官であった岸信介の支援が結びついて実現したものと思われる。数百年にわたる防長二州の医学教育の歴史をひもとくとき,山口県下における先人達の献身的な医学教育活動がその基礎にあり,また,医学教育に託す多数の医家の夢が実現して,明治期の医学校廃校後約60年を経てようやく山口県立医学専門学校の創設に至ったということができよう。

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6.おわりに
 本稿では昭和19(1944)年の山口県立医学専門学校誕生までの防長二州と山口県における医学教育の流れを概観した。このあと昭和20(1945)年8月の敗戦に至るまでの間,学徒動員,宇部大空襲,食糧難の時代を山口医専の生徒達は今日では想像に絶する体験を味わいながら医学を修得していった。その間戦時中に急増した医学専門学校の整理に関わるA級B級存続問題が起こり,これをクリアして昭和22(1947)年に医科大学設置が認可され,昭和24(1949)年4月に山口県立医科大学が正式に発足することとなる 注30
注30)山口県立医学専門学校第1期生は,昭和24(1949)年3月18日に87名の卒業生を送り出した。昭和22(1947)年6月に山口県立医科大学の設置と予科の開設が認可され,医学専門学校1学年修了以上の者は試験により予科2年に編入されて,昭和23(1948)年4月から県立医科大学1年生となった。そのため医学専門学校1~3年修了生が同学年になるという事態となった。その後学制改革により山口県立医科大学は旧制医科大学から途中で新制医科大学となり,昭和28(1953)3月第1期生35名が卒業する。こうした事情から昭和27(1952)年に本学を卒業した者はいない。

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そして昭和39(1964)年4月に山口大学医学部が創設され、その後年次進行で国立移管され今日の医学部の姿が形作られていった。
 山口県立医科大学の時代に寄贈された数百点の古医書が四熊文庫と浅山文庫として現在医学部図書館に収蔵されている。四熊文庫は徳山藩医四熊宗庵の書籍,浅山文庫は長府藩医関連の美祢四郎ヶ原浅山良輔の書籍から成り立っているが,いずれも幕末から明治初期にかけてのわが国動乱の時期の医学教育の記録として貴重なものである。両文庫から伺い知ることが出来る医学の流れは,防長二州における先人の医学教育の精神が渡部剛二(長門:宇部)と水田信夫(周防:田布施)両先生に山口県立医学専門学校を設立する動機を与え,それが山口大学医学部へと受け継がれて,今日の発展につながっていると見ることが出来る。

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参考文献
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