防長医学史

防長医学小史

「山口大学医学部創立50周年記念誌」より
(山口大学医学部創立50周年記念事業会、宇部、1995)

 16世紀、京の都は相次ぐ戦乱に廃墟と化し、多くの人々が都を逃れ、地方に宮廷文化をもたらした。そのなかでも山口は西の京と呼ばれ、大陸との盛んな交流を背景に大内文化と呼ばれる地方文化の華を咲かせていた。また、明国だけでなくスペインからイエズス会の命を受けて、フランシスコ・ザビエルがフェノレナンデス・ベルナルドを伴って來山したのもこの時期である。山口の統治は大内氏から毛利氏に引き継がれたが、大陸との医学交流も盛んで、明国の医家である張忠が渡來した記録が残っている。その後も李家道斎元宥や載蔓公(独立禅師)など優れた医家が渡來している。
 17世紀に入ると、萩の椿山に薬園が設けられ、烏田智庵正道ら優れた医家が輩出した。1719年萩藩校「明倫館」が創建され、萩藩士子弟の英才教育が始まった。当時の教授陣には医家も含まれていたが医学の講義はなされていなかった。1754年山脇東洋が京都六角獄舎において我が国最初の学術的屍体解剖を行ったが、それに後れること4年、1758年に栗山孝庵献臣が萩の手洗川刑場において我が国2番目の学術的屍体解剖を行った。さらに翌年には、栗山孝庵は萩の大屋刑場において我が国最初の女性屍体解剖を行った。
 19世紀に入ると佐伯玄厚、杉山宗立らが蘭学研究会を三田尻に開設し、山口における本格的な蘭学の伝播が始まり、1823年に徳山藩校「鳴鳳館」において医学が開講された。同年にはドイツの医家フランツ・フォン・シーボルトが長崎に渡米している。岡研介や杉山宗立らはシーボルトに師事していくつかの論文を提出している。ちなみに、シーボルトは山口県の下関と周防大島の和田村に立ち寄っている。その後、岡研介は『生機論』や『蘭説養生録』を著しているが、これらは我が国で最初に生理学や衛生学を紹介したものとして貴重である。
 この時期、毛利藩主敬親は藩の衛生事業に力を入れ、当時大流行したコレラや天然痘の予防のために1840年萩藩に医学所を創設し、賀屋恭安や能美洞庵を指南役として医学教育を開始した。その後、青木周弼は、その優れた先見性をもって敬親に仕え、山口での蘭学の普及に貢献した。さらに、彼の弟である研蔵や赤川玄悦及び久坂玄機らによって1849年萩の「医学館」において行われた牛痘接種は、長崎において蘭医モーニツキにより行われた我が国最初の牛痘接種に後れること4か月という異例の早さであった。ちなみに、ジェンナーによる牛痘接種法の発見から53年後のことであった。翌年には岩国の「愛知館」においても種痘が行われ、山口県における天然痘の予防は軌道に乗ったのである。
 さて、萩の「医学館」は「済生堂」から「好生館」となり藩の医学校としての内容を充実させた。また、萩八丁の南苑邸内には製薬所が設けられ、土屋養哲らにより西洋式の薬の製造が始まった。一方、江戸桜田の上屋敷では敬親が東条英庵や坪井信友を呼び蘭書回読会を開催している。1859年に「好生館」は「好生堂」と名を改めて「明倫館」に移され、西洋学所(後に「博習堂」)とともに藩の西洋医学教育の中心となった。当時の山口県は医学教育についても先進的であったと想像される。1866年「好生堂」は萩から山口へ移され、オランダの軍医ポムペ・フアン・メーデルフォルトに師事した上領道仁らが舎長として活躍した。1867年には大村益次郎が教授として山口の柊刑場において学術的屍体解剖を行ったと記録されている。
 1868年、明治政府が誕生し、山口県からも多くの志士が日本の近代化に貢献した。 1872年には山口県で全国に先駆け医術試験「壬申考試」が施行されている。同年、下関の奇兵隊病院跡に県立赤間関医学校が開設された。1874年には県立山口病院(旧「好生堂」)が山口から三田尻に移され県立華浦医学校となった。一方、岩国医学館「愛知館」は廃止された。1876年赤間関医学校が廃止され華浦医学校に統合された。1877年当時の華浦医学校診察医三河内文郁の遺言で、山口県における最初の病理解剖が行われている。同年には県の財政難により華浦医学校が廃止され、福田正二が私学として引き継いだが、しばらくして廃校となった。1880年に華浦医学校を県立として再興し、山口県医学校と称したが、1884年には廃校となった。
 その後の山口県の医療を担っていた医家たちは、県の医療体制の強化と医療水準の向上を図る目的で1887年第1回山口県医会大集会を開催した。山口県医師会の発足である。翌年に山口県赤十字社が設立され、1894年には日清戦争勃発により日本赤十字社山口支部においても初めての看護婦養成が行われた。
 このような背景をもって山口県に医学校の設立を望む声が大きくなり、軍医養成の大義のもと、山口県・宇部市・医師会をはじめ地元企業の献身的な努力によって、1944年宇部市に県立医学専門学校が設置され、60年の間途絶えていた山口県の医学校の歴史に再び灯がともされたのである。

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